紀行
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平成26年3月10日 池 内 淑 皓 |
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ご存じ『「忠臣蔵』で知られた赤穂義士四十七名、吉良邸討ち入りの後、高輪泉岳寺までの道筋を歩いて見よう。 頃は元禄十五年(1702)十二月十四日、しんしんと降りしきる雪の夜半、山鹿流の陣太鼓が本所松坂町に鳴り響く、大石内蔵助以下四十六名、対する吉良邸には士分の侍が七十九名いたが、用心棒はいなかった。斬り合いは十五日未明まで続く、やっと吉良上野介義央の首級を上げた。四十七士は隊列を組んで夜明けの大川端(隅田川)を浅野内匠頭長矩の菩提寺である泉岳寺に向かった。 赤穂義士、吉良邸から泉岳寺への道を歩く(1)では江戸城殿中松の大廊下から浅野内匠頭切腹の地まで歩いた。 赤穂義士、吉良邸から泉岳寺への道を歩く(2) では本懐を遂げた四十七士が吉良邸から永代橋まで引き揚げの道筋を歩いた。 今回は永代橋から先泉岳寺までの足取りを歩いて見よう。 |
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永代橋から新橋駅裏まで (国土地理院発行地形図1:25,000) |
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「高橋を渡る」 永代橋を渡って新川一丁目に出て、明正小学校前を通って亀島川を「高橋」で渡る、橋の袂を左折して鉄砲洲通りを南下する。 |
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わずかの距離で鉄砲洲神社の前に出る、義士達の道は交番の角を左折して一本裏道を歩き(鮨屋の前)湊二丁目先宗教法人真教会角を再び右折して鉄砲洲通りに戻る。明石町に入って、聖ジョセフ協会の前 を通り、消防署の角を左に折れれば「浅野内匠頭屋敷跡」の碑が見えてくる。現在は聖路加病院と聖加看護大学の敷地となっている(浅野家の敷地をぐるりと回ってきたことになる) |
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「鉄砲洲神社」 江戸湊の入口に鎮座する稲荷、もとは寛永元年(1624)稲荷橋にあったものを、明治に入ってここに移した。鉄砲洲とはこのあたりが鉄砲のように長い砂洲になっていて名付けられたという、また江戸時代ここで砲撃の訓練をした場所であるともいう。ここには珍しく冨士信仰の「冨士塚」がある。 |
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「浅野内匠頭長矩上屋敷」(明石町10-1) 現聖路加国際病院一帯から河岸まで8,900坪あった、長矩はここで生まれた、刃傷のあと播州赤穂の領地と江戸屋敷は全て取り上げられた。 |
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「江戸切絵図鉄砲洲」(文久元年) 文久の切絵図では浅野の領地は田沼玄蕃守の下屋敷になっている。 右上の象の鼻のような部分が鉄砲洲、 中央の緑に囲まれた敷地が「現本願寺築地別院」、 義士引き上げの道は赤点線で記入した右下の白い囲みは「御軍艦操練所」と印されている、勝海舟らがここで操練した。 (家紋付の敷地は上屋敷で殿様の滞在場所、■で表されている屋敷は中屋敷で郎党達が居住、●で表示されている屋敷は下屋敷で賄い地、道の所々に四角い囲みがある印は辻番所、到る所で通行人を見張っていた) |
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「本願寺築地別院」(築地3-15-1) 浄土宗、明暦三年の大火で焼失、昭和六年インド風の本堂を建立した。 |
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「間新六の墓」本願寺境内にあり、四十七士引き上げの途次隊員の「間新六」は、持っている槍を本願寺境内に投げ入れた。 切腹の後、姉婿の中堂又助は亡骸を引き取ってここに埋葬した。赤穂義士で唯一泉岳寺に埋葬されなかった一人である、 間新六の投げ入れた槍は現在寺宝となっている。 |
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「札の辻から泉岳寺まで」 (国土地理院発行地形図1:25,000) 新橋から浜松町1の信号で第一京浜国道(R15)に出る、以降泉岳寺の信号まで第一京浜を歩く事となる。この道は江戸時代の東海道である。 |
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「高輪の大木戸」浜松町から大門を通り、芝4丁目信号から札の辻に出て高輪の大木戸に到る。 大木戸の初めは、元和二年(1616)現在の「札の辻」に設けられたが、700m南に宝永七年(1710)江戸府内の出入口として設けられた。明け六つ御門開き、暮れ六つに御門閉じる。 義士達は咎められることなく札の辻の木戸を通過したと云う。 国指定史跡 |
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「江戸切絵図 高輪」 嘉永三年(1850) 地図上方に泉岳寺が見える、中央に細川越中守綱利中屋敷が見える、大石良雄以下17名はここで切腹した。 |
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「泉岳寺」(高輪2-11-1) 浅野内匠頭と義士達の墓所。 曹洞宗 慶長十七年(1612)家康が今川義元の菩提のために外桜田に創建したのが始まりで、寛永年間に焼失し、三代将軍家光の命により浅野家を中心に現在地に再建した、この縁で浅野家の菩提寺となった。 |
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「首洗いの井戸」 泉岳寺境内にある、吉良上野介の首をこの井戸で洗い、浅野内匠頭守の墓前に供えた。 泉岳寺に到着後、いち早く吉田忠左衛門と冨森助右衛門は大目付であった「仙石伯耆守」(虎の門2-8)の屋敷に出頭して、討ち入りの顛末報告とその後の沙汰を待つ。 大石達は主君の墓前に吉良の首を供えてから、虎の門にある仙石邸に向かった。 老中稲葉丹後守(小田原藩)は即日禄高の高い順に預け先を決める 1.肥後熊本藩 細川越中守(高輪1-14) 大石内蔵助以下16名 2.伊予松山藩 松平家(三田2-5-4) 10名 3.長門府中藩 毛利甲斐守(六本木6-9) 10名 4.三河岡崎藩 水野監物(芝5-20-20) 9名 |
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「肥後熊本藩 細川越中守綱利公下屋敷」(高輪1-14) 綱利公は仙石邸に総勢875人の藩士を引き連れて内蔵助以下16名の受け取りに出向いた、上杉家の襲撃を警戒したのである。 一方上杉家(霞が関1-1)江戸家老の色部又四郎は、上杉家が事件に巻き込まれ、お家断絶になるのを避けるべく、身を挺して討手派遣を阻止した。 そして幕府の高家「畠山義寧(よしやす)」は上杉家に行き、「討手を差し向ける事を控えよ!」との老中からの下知を伝えに来る。 (下屋敷は明治に入って高松宮邸となり、高松中学、都営住宅地ともなっている) |
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「大石内蔵助以下16人切腹の場所」(細川邸 大書院上の間の前庭) 元禄十六年二月四日午後二時、上使の目付「荒木十左衛門政羽」と御使番「久永内記信豊」から切腹の申し渡しを受ける。 大石良雄は一同を代表して「切腹申し仰せ付けられ候段有難き仕合せに存じ奉り候」と礼を述べた。 |
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「泉岳寺境内 義士達の墓」 線香の煙が絶えない。 義士の墓は四十八基ある、萱野三平は討ち入りの願文を出したが、父との板挟みに会い、元禄十五年一月十四日に自害する、討ち入り後ここに埋葬された。 |
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「大石内蔵助良雄の墓」 辞世 「あら楽し 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 |
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「堀部安兵衛の墓」 切腹の義士達は 戒名の頭に刃が付く |
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「寺坂吉衛門の墓」 既に記述したように討入りのあと、隊列から離れ切腹を免れた、義士達の行く末を見守った後仙石伯耆守邸に自訴した、伯耆守は寺坂を不問に付して内密に逃がす。 彼の元の主人であった吉田忠左衛門の娘婿である伊藤家に22年間仕え、更に享保十八年土佐山内家の分家である新田山内家3千石に再度仕官して83歳まで生き「寺坂吉衛門自記」を残した。 戒名は「逐道退身信士」となっている、逐電(逃亡)したからである。 吉良家その後について記すと義士切腹の当日二月四日、同時に吉良家当主「吉良左兵衛」へ改易が下され、信州高遠城主諏訪安芸守へお預かりとなる。かつては権勢並ぶもの無き高家筆頭の吉良家も、小仏の関を通るためには道中手形が必要となった。信州へ移って三年、左兵衛は二十一歳で病没した。喧嘩両成敗が成ったのである。 最後に鉄道唱歌の一説を記述して終りとしたい。 「右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消え残る 名は千載の後までも」 |
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完 |