紀行

健康ご利益めぐり-10 文京区−1


平野 武宏

文京区の健康ご利益です。ここには飲食物にちなんだ名前の神様・仏様が多くあります。美味しいパン屋さんの寄り道からのスタートです。
最寄駅は代表例です。価格は訪問時のものです。

[文京区]

 [寄り道]  Sekiguchi (フランスパン) 関口2-3-3
                最寄駅 有楽町線 江戸川橋駅

1888年(明治21年)創業のパン屋さんです。近くにカトリック東京大司教区カテドラル関口教会があり、早くからフランスパンの需要があったようです。お客様は圧倒的にご婦人たちです。
寅次郎、明日の朝食にと大好物のフランスパンを買ってナップザックに背負い、ご利益めぐりにスタートしました。
店内で食べることもできます。

[咳]日輪寺 甘酒婆地蔵 小日向1-4-18 最寄駅 江戸川橋駅

パン屋さんの前の道を横断、石切橋を渡り、巻石通りの水道端図書館前の信号脇にある曹洞宗のお寺です。
本堂(写真下左)左に福々しく、愛嬌あるお顔をしたお地蔵様が鎮座。前にある湯飲み茶わんに「甘酒婆地蔵尊」と書かれてありました。 (写真右)
説明板はありませんが、近くで甘酒を売っていたおばあさんで、親切で人に好かれていましたが、ひどい咳に苦しんでいました。
そして亡くなる時に「同病の人を救いたい」と言い遺しました。
住職がその姿を石に刻み、安置すると、咳に悩む人たちが甘酒を供え祈願するようになったそうです。東北地方では甘酒婆とは婆の姿をして甘酒を売る妖怪だそうです。

 [諸病平癒]北野神社(牛天神)牛石  春日1-5-2  
                       最寄駅 大江戸線 春日駅

日輪寺を出て左の道を教育センター前まで行くと右手に入口の上り階段があります。
源頼朝がこの付近で仮眠をとった際に、牛に載った菅公が現れ、吉報をもたらした。夢から覚めるとそばに牛石がありました。その後、頼朝には息子が生まれ、平氏も退けることが出来ました。
そのお礼に元暦元年(1184年)に社殿を建てたのが始まりの古社だそうです。
社殿左手前に頼朝が見た、しめ縄で囲まれた牛石がありました。 「左側の口元より撫でながらお願いを唱えてください」との立札があります。
牛天神らしく狛犬の代わりは臥牛でした(写真上)

[咳・喘息]福聚院 とうがらし地蔵 小石川3-2-23 
                  最寄駅 大江戸線 春日駅


北野神社の裏から春日通りに出て、左側の傳通院方面に戻り、傳通院の手前左側にある浄土宗の寺で小石川七福神の大黒天です。
境内に福寿幼稚園があります。本堂(写真上左)は奥にありますが、とうがらし地蔵(写真上右)は入ってすぐ左側にあり、朝の掃除をしている幼稚園の先生に声をかけて園内に入りました。
咳に悩んでいたとうがらし大好きなおばあさんが医者の言うことも聞かずに食べ続け死んでしまいました。哀れに思った人たちが供養の地蔵を建て、とうがらしを供えました。このお地蔵様に祈ると咳が治ると言われるようになり、お礼にとうがらしを供えたとのこと。
とうがらしのレイをかけたお地蔵さま(写真上右)でした。

[眼]源覚寺 こんにゃく閻魔      小石川2-23-14 
                     最寄駅 大江戸線 春日駅


傳通院前を右折、善光寺坂を下り、右折するとある浄土宗のお寺です。
寛永元年(1624年)創建で「こんにゃく寺・こんにゃく閻魔」と呼ばれています。
宝暦の頃(1751〜1764年)眼病に悩む老婆が閻魔様にお百度参りをしました。
満願の夜、夢に閻魔様が現れ、「汝の真心に応じて、わが眼をひとつ与えよう」と告げ、老婆が夢から覚めると眼の痛みは消え、片方の眼はよく見えるようになりました。
夜明けを待って閻魔堂に駆けつけると、閻魔様の右眼にひびが入り、黄色く濁っていました。感謝した老婆は以来、好物のこんにゃくを断って、閻魔さまにお供え続けたとのこと。この縁起に倣い、眼病や視力回復を祈願する参拝者はこんにゃくを供えるのが通例となったそうです(写真上左は本堂、右は本堂前に供えられたこんにゃく)老婆は好物のこんにゃくを断って祈願したとの説もあります。
こんにゃくは「困厄=困ったこと」につながり、「困ったことを閻魔さまに代わって受けてもらうという願いだ」だそうです。

[イボ取り・歯・身体祈願]源覚寺 塩地蔵 

閻魔堂の右側に塩の山の中に立っている二体のお地蔵様があります。
立札には「当山開創以前よりこの地にあって、人々の信仰を集めたと伝えられています。お地蔵様のお身体に塩を盛ってお参りすることから塩地蔵と称し、その由来は古来より塩は清めとして用いられることより参詣者の身体を祈願するものと説かれる」と記載。イボ取りや歯の病にご利益があるとのこと。
隣には小石川七福神の毘沙門天が祀ってあるお堂がありました。
 [子供の病気平癒] 喜運寺 延命豆腐地蔵  白山2-10-3
                         最寄駅 三田線 春日駅


源覚寺前を左方面に道なりに行くと、共同印刷手前、右側にある曹洞宗のお寺です。この辺りは印刷や製本の会社が多い所です。
説明の石碑によると「慶長元年(1595年)桜田門内に草創、江戸城拡張により移設、明暦の大火で類焼後、小石川村のこの地に移ったとのこと。
延命豆腐地蔵の由来は江戸享保の頃、当門前の豆腐屋へ毎夕、豆腐を買いに来る小坊主があり、代金が小石や木の葉になるので、狸の仕業と思い、店の主人が後をつけると喜運寺の地蔵堂内の地蔵尊の化身と発覚した。
豆腐が好きな地蔵尊と以後、願のあるものは必ず豆腐を供え祈願したので世に「豆腐地蔵尊」と言われるようになった。
又いつの世にか子供の病気平癒や乳の出ない産婦に効き目があり、そのお礼に豆腐を供えるようになったという」と記載。

[こぼれ話] 傳通院(でんづういん) 小石川3-14-6 
                    最寄駅 大江戸線 春日駅

その1.徳川将軍家の女たち
 
  
応永22年(1415年)開山の浄土宗の名刹。当時は小石川極楽水の小さな草庵寿経寺という名でした。
慶長7年(1602年)徳川家康の生母 於大(おだい)の方を埋葬し、その法名「傳通院殿」が寺の名前となりました。
以来、千姫(二代将軍秀忠の娘・豊臣秀頼の正室)、三代将軍家光の正室など多くの徳川将軍家ゆかりの女たちが埋葬され、一緒に眠っています。明治に入り、一般に墓地を開放して、作家の佐藤春夫、柴田錬三郎、傳通院の前にあった子院の処静院で新撰組の前身「浪士隊」を結成した清河八郎などの墓があります。

 山門  本堂
於大の方(家康生母)の墓 千姫(二代将軍秀忠の娘)の墓

その2. 指塚

傳通院山門を入り、すぐ左側には「指圧の心は母心 押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳治郎氏(当時の日本指圧協会会長)建立の「指塚」がありました。
指でもろもろの病を癒し、人々に慶びと救いを与えた指圧の霊碑と書かれてありました。
山門を出ると、左側に浪越学園日本指圧専門学校がありました。

その3.慈眼院 沢蔵司稲荷と椋木(むくのき)  小石川3-17-1

傳通院の前の善光寺坂を行くと、老樹と説明板、慈眼院がありました。
伝通院の学寮(修行する場所)に沢蔵司(たくぞうす)と言う修行僧がいて、わずか3年で浄土宗の奥義を極めました。ある夜、千代田城の稲荷大明神と名乗り、学寮長の夢枕に立ち「浄土宗の勉強をしてきたが、ここに達した。元の神に帰るが傳通院を守り、恩に報いよう」と告げたとのこと。
傳通院の住職は沢蔵司稲荷(写真下右)を境内に祀り、慈眼院(写真下左)を別当とした。又、沢蔵司そばが好きで、門前のそば屋によく食べに通いました。彼が来た時の売上金の中に木の葉が一枚入っていたそうで、主人は沢蔵司が稲荷大明神であったかと驚き、毎朝、そばを供え、いなりそばと称したとのこと。


慈眼院と隣にある沢蔵司稲荷の脇を下りると、窪地に鳥居と狐像が沢山ありました(写真下左)鳥居の先には狐棲の洞窟御霊窟(おあな)」(写真下右)があり、今にも狐が出てきそうな別世界の雰囲気でした。


慈眼院前の善光寺坂には椋の老樹(写真右)があり、「これには沢蔵司が宿っていると 言われ、道路拡張の時、道を二股にしてよけて通るようにした」と記載。


   今回のご利益めぐりは
     甘酒・とうがらし・こんにゃく
     塩・豆腐・そば
   飲み物・食べ物づくしでした。
次回も文京区のご利益めぐりです。

平野 寅次郎 拝