紀行

健康ご利益めぐり-11 文京区−2


平野 武宏

文京区の健康ご利益の続きです。ここは寅次郎と昔からご縁があった「八百屋お七」ゆかりの地でした。
  最寄駅は代表例です。寄り道の価格は訪問時のものです。

[文京区-2]

[歯]白山神社
  白山5-31-26 最寄駅 三田線 白山駅


天暦年間(947〜957年)に加賀国(現石川県)の一之宮である白山神社を本郷2丁目に勧請が起源。二代将軍秀忠の命で現在の小石川植物園内に移った時期もあったが、その後、将軍になる前の綱吉の屋敷造営で明暦元年(1655年)現在地に再度移転しました。小石川の鎮守です。
その縁で五代将軍綱吉とその生母桂昌院の篤い信仰を受けました。加賀国のある修験者の一人が荒行の末に、「歯痛止めの業に到達したと言われ、各地の白山神社は古くから歯の痛みを和らげてくれる効験で信仰を集めました。又ここはあじさいの名所で「文京あじさい祭り」の期間中には、使い古した歯ブラシを納める「歯ブラシ供養」が行われます。針供養は聞いたことがありますが・・ (寅さん歩その9富士塚めぐり-2白山富士参照)八百屋お七ゆかりの地はご利益めぐりでは寅さん歩その10-3目黒区大円寺(吉三郎が出家してお七を供養)がありました。文京区には於七地蔵、圓乗寺お七の墓、大円寺(ほうろく地蔵)、駒込吉祥寺(西鶴作好色五人女の舞台)などがあります。先に「こぼれ話」の登場です。

[こぼれ話]八百屋お七物語

 ♪ 頃は元禄徳川の〜 井原西鶴その人の〜 五人女のその中で〜 ♪
「八百屋お七」との最初のかかわりは中学2年生の時でした。
お泊まり修学旅行の時に担当の先生から「八百屋お七の歌」(恋に狂った可憐な娘の悲劇物語で約4分の歌詞)を教わり、幼い頭脳で長い歌詞を一生懸命に暗記しました。古希を過ぎ、多くの昔のことは忘れましたが、何故か!? この歌詞だけはしっかりと覚えています。
大学時代に合気道部の先輩が部の納会でこの歌の替え歌を歌ってくれました。よく聞くと歌詞が違いましたが、先輩の歌詞が本物で、先生は中学生用に卑猥な歌詞を言い換えたり、削除して教えてくれたようでした。

お七の恋人の名は諸説があり、佐兵衛、庄之助、吉三郎(井原西鶴の本)、吉三(落語)とさまざまな呼び方があるようです。

白山駅の前の道を渡り、下ってすぐ左手に入ると圓乗寺です。
寺入口角に「於七地蔵」(写真左)があります。







圓乗寺に入ると八百屋於七の墓があります。写真下は左端にあるお墓。
お七の墓の右側にある写真上の三基の真中住職が建立の供養塔、は寛政年間にお七を演じた初代岩井半四郎が建立した113回忌供養塔、町内有志が建立した270回忌供養塔です。
写真下は駒込吉祥寺の二人の比翼塚。
  
                           

[首から上の病(頭・眼・歯・鼻・耳・脳梗塞)]  向丘1-11-3 
      
大円寺 ほうろく地蔵    最寄駅 三田線 白山駅


圓乗寺脇の浄心坂(別名:お七坂)を上がり、旧白山通りを渡り、左に進むと慶長2年(1597年)開山の曹洞宗の大円寺があります。千羽鶴がご利益を表しています。
説明板には「天和2年(1682年)お七火事で捕えられ火刑となり、歌舞伎の演目にもなった悲恋話のヒロイン「八百屋お七」を供養するために寄進されました。
ほうろくをかぶっているのはお七に代わって焦熱の苦しみを受けるためと言われています」と記載。
享保4年(1719年)渡辺九兵衛という人物が寄進とのこと。高さ約1.5mのお地蔵さまは頭の上にほうろく(素焼きの平らな土鍋)を4枚乗せて立っており、台座の廻りにはほうろくがうず高く積まれています。
ご利益は頭痛、眼、歯、耳、鼻、脳梗塞など首から上の病気平癒です。
これからお世話になるだろうと寅次郎、しっかりと手を合わせました。
 ほうろく地蔵を見て、すぐ帰られ方が多いですが、左手奥には慶長2年(1597年)創建の曹洞宗の大円寺本堂があります。


[咳]正行寺 とうがらし地蔵
 向丘1-13-6 
                最寄駅 三田線 白山駅

大円寺の裏の道を行くと、本郷通りに出ます。右折して、向丘一丁目交差点前にある浄土宗のお寺です。見事な桜の木の後ろに本堂が隠れています。



本堂手前左側にある地蔵堂(写真上)に納められている「とうがらし地蔵」(写真左)は元禄15年(1702年)僧の覚宝院(かくほういん)が持病である咳の平癒と人々の諸願成就を祈り、自らの座禅像を石に刻んだものとのこと。
左脚を立て右手を膝の上に置いた像です。覚宝院が「とうがらし酒」を好んだことから、古来、とうがらしを供え、咳止めのご利益にあやかろうと信仰を集めたそうです。
とうがらし地蔵宛で書面での咳の願掛けの郵便物が届くと、本郷郵便局は正行寺へ配達したそうだ。 

[痔]吉祥寺 茗荷稲荷神社
  本駒込3-19-17 
                最寄駅 南北線 本駒込駅

本郷通りを駒込駅方面に歩くと、立派な山門が右側にあります。
長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け「吉祥庵」と称したのが始まり。天正19年(1591年)水道橋に移り、明暦の大火で類焼し、現在地に七堂伽藍を健立、曹洞宗の大寺院となりました。
関東における曹洞宗の僧侶の養成機関 旃檀林(せんだんりん)[駒沢大学の前身のひとつ]が置かれ、多くの学僧が学んだとのこと。
山門から本堂に向かう参道のしだれ桜は見事でした。(写真下)


痔にご利益のある茗荷稲荷神社(写真右)は山門を入り、参道の左側にあります。
説明板によると「家康公ゆかりの毘沙門天堂脇の庚申塚に茗荷権現があり、寛文年間の厄病が蔓延の際、祈願の人が絶えず、特に痔病の根冶に霊験ありとされ、茗荷を絶って心願する者多し」と記載。
広い境内には二宮尊徳の墓、八百屋お七・吉三郎の比翼碑(井原西鶴が「好色五人女」の一人に吉祥寺を舞台に八百屋お七をモデルにした)があります。

[厄病封じ・食中毒・インフルエンザ]本郷薬師 本郷4-2と7の間
                     最寄駅 大江戸線 本郷三丁目駅

本郷三丁目交差点角の提灯が並ぶ路地にあります。
説明板によると「この地は真光寺(戦災で世田谷区に移転)の境内でした。寛文10年(1670年)この地に薬師堂が建立。当時、御府内に奇病が、はやり病に倒れる者数知れず出たため、この薬師様に祈願、病気が鎮まったと伝わる。本来薬師如来は人間の病苦を除く仏とされている。以来、人々に深く信仰された。戦災で焼失したが昭和22年改築、昭和53年(1978年)新築された」と記載。
厄病封じに霊験あらたの他に、夏場の食中毒やインフルエンザにご利益があると伝わります。

[美髪・厄除]心城院 柳の井 湯島3-32-4 最寄駅 湯島駅


湯島天満宮の男坂の階段を下ると左側にある天台宗のお寺、別称「湯島聖天」です。
キャッチフレーズの「江戸名水でさらさらヘアー」が気に入った寅次郎でした。

寺のしおりには「江戸時代の文献に、この井は名水にして女の髪を洗えば、如何ように結ばれた髪もはらはらほぐれ、垢落ちる。
気晴れて風新柳の髪をけずると云う心にて柳の井と名付けたりと記されている。
柳の井は古来より枯れることもなく、数滴、髪に撫でれば水垢を落とすが如く、髪も心も正常になり、降りかかる厄難を払ってくれると伝えられています。古くから美髪を求める女性たちの信仰を集めています。柳井堂とも呼ばれた心城院は関東大震災のときは湯島天 神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として当時の東京市長から感謝状を受けた」と記載。

手遅れとは知りながら、名水を手にし、髪に撫でつけた寅次郎でした。

[病気平癒] 林泉寺 しばられ地蔵  小日向4-7-2
                   最寄駅 丸の内線 茗荷谷駅

慶長7年(1602年)伊藤半兵衛長光を開祖とし、創開されました。駅のすぐ裏にあります。
人々が願いを叶えたいときに地蔵尊を縄で縛り、願いが叶うと縄をほどくので「しばり地蔵」とも言われた江戸時代からの庶民信仰です。都内にはいくつかこの種の地蔵尊がありますが、縛られ方やご利益がそれぞれ異なっています。ここの縛られ方はお顔を残し、ご利益は諸願成就。葛飾区水元にある「大岡政談」に出てくるお地蔵さまは反物を盗んだ犯人を見逃した罰でぐるぐる巻きに縛られているそうです。
ご利益は盗難除けとのこと(葛飾区ご利益めぐりで訪れてみます)。
 
次回は墨田区のご利益をめぐります。

平野 寅次郎 拝