寄り道・道草71
川運の本拠地 片瀬湊

 八柳 修之

片瀬湊絵図
藤沢宿は近世、交通の要路として栄えた。明治20年7月、藤沢駅が開業するまでは、大量の物資の輸送は境川を使った川船や廻船によっていた。境川左岸を河口に向かって歩くと、新屋敷橋の手前に馬喰橋という小さな橋がある。源頼朝が川を渡るとき鞍をかけて渡ったと伝えられが、この橋の近くに荷揚げ、荷積みした河岸(かし)があったことも案内板は伝えている。調べてみると、廻船の玄関口(片瀬川と呼んでいた)であったとされる片瀬湊(浦)であった。片瀬湊に廻船が停泊する様子は「相中留恩記略」(天保10年1839)に描かれている。

江戸時代前期には藤沢の年貢米などは、片瀬湊から江ノ島の西浦(岩本楼の裏、参道、ハルミ食堂脇入る)へ廻船で運ばれ、西浦で親船(千石船)へ積み替えられ江戸などへ輸送された。また江戸からの荷は西浦で陸揚げされるか、艀や小舟を使って上流の片瀬湊まで運ばれた。多くは浦廻船という100〜300石積の河川も航行できる五大力舟と呼ばれる舟であった。なぜ、片瀬湊はこの地点にあったのだろうか。かつて新屋敷橋辺りまでプレジャーボートの不法係留が見られた。これは舟が容易にこの地点まで遡航できるということである。つまり片瀬川の河面の高さが海面の高さと同じになる、流速や水位が潮の干満の影響を受けて変動する川、地理でいう感潮河川である。その変動区間は現在ボラが飛び上がるのが見られる奥田橋付近まであろう。

昔、川運は大正橋の付近、蔵前と呼ばれた辺りまであったとされる。現在、蔵前ギャラリーとなっている榎本元米穀物商の土蔵は、江戸時代に年貢米を納入する蔵であった。幕末、片瀬湊の積荷は、移出されたものは麦、蕎麦、大豆などの雑穀、紫、紫紺、綿類、丸太、板、竹など林産品、移入されたものは酒、米、塩、醤油などの調味料、肥料、小間物、荒物、瀬戸物、紙などの日用雑貨であった。また、片瀬湊には運上役場が置かれ船宿もあり、藤沢宿周辺の物資の出入地として重要な位置をしめていたという。

時代が下って、明治20年7月、藤沢米穀肥料組合が馬喰橋付近に600坪を購入し倉庫を建設、肥料の荷積が行われたという記録がある。また、片瀬湊の下流、境川の右岸、ポンプ場付近(鵠沼の景観10選―7)に紋十郎河岸という荷揚げ場があり、南部の本村、羽鳥、明治村に荷を運んだ渡しがあったという。(完)

出典・参考資料 「藤沢市史 第6巻」 藤沢市、 「地理用語集」 山川出版、「藤沢の地名」 日本地名研究会編 など