寄り道・道草73
境川の地名雑学

 八柳 修之

 境川は町田市大戸の草戸山(365m)を水源とし片瀬海岸に注ぐ全長52kmの二級河川である。昔、高座川と呼ばれ、文禄三年(1594)、中流から相模国と武蔵国の境にしたことに由来する。境川遊水地公園辺りから川沿いに河口まで下ってみよう。河口に向かって右側が右岸といい河岸段丘の台地が続き左岸は低地である。

 この辺りは俣野郷、川を挟んで西側が藤沢市西俣野、境は川の右岸か左岸か、力関係なのか。洪水の度、流路が変るから境界をめぐって争いが起きた。現在は川の中間点をもって境としている。川の両岸に指示標が打ち込んであるから注意して歩いて見よう。サイクリングロードを下って行くと境川沿いに広がる心和む田園(六会景観8)である。昔、水の得られる所はみな水田とした。耕地は河内(コーチ)とも書かれ、北窪河内、大河内、窪河内という小字が続く。柏尾川の下流にも前河内、後河内、裏河内という小字がある。

 かつて西俣野付近は川の蛇行が激しく水害に遭うことが多くドブ田と呼ばれていた。土手が切れてできた池にごぜ(三味線を弾き門付する目の悪い女旅芸人)が落ちて亡くなった「ごぜ淵」の碑が花応院の近くにある。1号線バイパスを潜った辺り右岸、日本精工の工場全域には横須賀という小字が残っている。「スカ」「スナ」、「洲処」洲のある処という意味で須賀という字があてられ、方言でもスカという言葉は砂丘、砂地を意味しているそうだ。また下流左岸の片瀬4丁目にも浜須賀と呼ばれる集落がある。

 川はやがて柏尾川と合流する。奥田公園、市民会館の辺りは洪水のとき一帯が浸水する氾濫原であった。昭和30年代に埋立てられたが、昭和58年の大雨では一帯大浸水に遭ったという。川が大きく蛇行する所には川袋という名がついている。川が袋のような形に土地を取り巻いていることからきたもので地名にもなっていたが、河川改修で川が直になり地名は現在、鵠沼石上となっている。秩父宮体育館は鵠沼東、東京ガスの辺りだけは飛び地で片瀬1丁目となっている。

 境川の下流は片瀬川とも言う。洲鼻通りの名は川が運んで来た土砂が堆積してできた洲の先端と言う意味。境川河口に架かる最後の橋は片瀬橋、川と海の境はどこか? 河川法によると、「河口において、河川護岸または河川堤防と海岸堤防とが区別できる場合は両岸の護岸、または河川堤防の先端を結んだ線をもって海域との境界とする」とある。橋に表玄関と裏玄関があり、国道に架かる橋は日本橋側が表玄関で橋の名が漢字の銘板というのが田島利郎氏(会員故人)の説であるが確かではない。(完)

    参考資料:「藤沢の地名」発行 藤沢市   「地理用語集」山川出版社