寄り道・道草74 | |
相模国大庭という所、砥上原を過ぐるに・・・「芝まとふ葛のしげみに妻籠めて砥上原に牡鹿鳴くなり」、「こころなきに身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」。西行が東国へ下ったのは、文治二年(1186)、重源上人に頼まれ遠縁の藤原秀衡に東大寺再建のために砂金の勧進を願うことであった。西行69歳のときの旅であった。 関心は西行の歩いた道である。砥上原は広い意味で片瀬川(境川)から相模川までの広範囲の地域を言い、狭い意味では片瀬川から引地川までの地域、現在の鵠沼を指すというのが定説となっている。 さて、鎌倉街道が開設されたのは文治元年(1185)、街道は懐島(茅ヶ崎市円蔵)から、辻堂八松ヵ原(宝泉寺〜八松稲荷)、堂面、引地川を徒渉し八部、納屋(高根バス停)までははっきりしているようだが、その後のルートは明らかではない。有賀密夫は賀来神社付近からで徒渉し片瀬小学校付近に出て腰越に続いていたと推定している。 左図は片瀬川と引地川の旧河道と氾濫原、砥上原の道の推定図(藤沢市教育委員会「大庭御厨の景観」)である。片瀬川は柏尾川と合流し大きく蛇行し池や氾濫原となっている。この氾濫原を避けて、砥上原を通る道はA、B、Cの三つの道が推定されている。西行は大庭より皇大神宮(鵠沼神明社)砥上原を通るAルートを通ったと推定される。当時の砥上原は草木が繁茂し池と広い湿地には鴫や鵠(白鳥の古語)、水鳥の天国であ ったろう。夕刻、砥上原の歌を徒渉前に詠んだと見られる。西行が藤沢を歩いた痕跡は江ノ島道に杉山検校の江ノ島道標、西行戻り松が片瀬公民館付近に見られる。この後、西行は頼朝の願いに応じ、途中、嫌々鎌倉に立ち寄っているが、西行にとっては、やがて滅亡する藤原氏を感じとり頼朝に会うのは気が進まぬ旅であったと「西行花伝」で辻邦生が述べている。 参考・引用文献:桑原博史「西行物語」(講談社学術文庫) 有賀密夫 鵠沼の歴史地理考 「わがすむ里第28号」、 桜井豊編著 「辻堂物語」 |