寄り道・道草81
片瀬・鵠沼地区の震災被害碑

 八柳 修之

「震災は忘れた頃にやって来る」寺田寅彦の警句だが、最近は忘れなくとも地震、洪水が頻繁にあり、東海地震や南関東直下型地震などいつ起きても不思議ではない状況になって来ている。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害と福島第一原発による事故被害と合わせて東日本大震災と呼んでいるが、大きな被害をもたらした事は記憶に新しい。
改めて見て見ると、津波は場所により波高10m以上、最大遡上距離40km、死者・被災者18,432人、建物の全壊・半壊数40万2700戸。震災直後ピーク時罹災者40万人以上(藤沢市の人口42万人)、災害時における被害面積561㎢(横浜市+川崎市)


これより先、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では東京、横浜では大火災となり、死者、行方不明者約10万人の被害があった。藤沢も大きな被害を受けたが、その被害状況はあまり知られていない。「寄り道」からは大きく逸れるが、藤沢の被害状況を見てみたい。

次の表は「藤沢市域震災被害統計」(神奈川県災害誌」(1927)の孫引きである。

この表によると、藤沢地区総戸数6,384戸のうち、全壊2,810戸(44%)、半壊2,316戸(36%)併せて5,126戸、80%の家屋が被害を受けた。死者・負傷者は516名、そのうち242名(全体の52%)は藤沢町の人であった。藤沢町では96%の家屋が災害を受け、死者・負傷者が多かったのは、当時の藤沢町は本町を中心とする藤沢宿、駅付近に家が集中(44%)していたからである。川口村とあるのは現在の片瀬地区、村岡、六会は境川流域、小出村、御所見村は引地川、目久尻川の氾濫によるものであろうか。


さて、東北地方太平洋沖地震程度の地震があった場合、藤沢はどの程度の被害を受けるだろうか。各家庭に配られた危険度マップを改めて見て見よう。一言で言うと国道1号バイパスより南側では家屋の全壊率は高く全壊は50%を超える所が多い。片瀬、鵠沼、藤沢地区は海抜10m以下、約7万人弱の人が住む。

前置きが長くなったが、関東大震災の傷跡を記録した片瀬、鵠沼地区にある数少ない石碑を訪ねてみた。

     片瀬上諏訪神社の震災記念碑  片瀬2-19-27 
  
70段もの石段を上った本殿前左側に
「震災記念碑」
 

設立:大正13年9月1日  設立者:撰書:諏訪神社 社掌 相原政雄 高さ:175cm
記念碑裏側に碑文が彫ってあるが、経年劣化で判読できない。文書館で調べた碑文の大意。
「氏子の全潰180戸、半潰269戸、全焼5戸、流出14戸、死者33名、負傷者52名、辛うじて生き延びた人々は悲惨を極めた。慰霊のためここに災記を記録し後世に伝える」
上諏訪神社については寄り道24で採り上げたので、神社の沿革などは省略

 東久邇宮第二王子師正王御遭難記念碑 鵠沼海岸 2-11-34 高さ:230cm

設立:大正12年9月1日  設立者:吉村鉄之助 小田急片瀬江ノ島駅下車、鵠沼公民館前から海側に向かって歩くと左側、介護施設湘南プロムナード構内にある。設立者:吉村鉄之助
設立の大意 大正12年7月19日から御避暑中、大震災のため崩御遊ばされる。
  補足説明が必要である。戦前、東久邇宮は宮家の一つ。
戦後間もなく短期間であるが第43代内閣総理大臣を務めた東久邇宮稔彦の第二子、師正王(もろまさおう)は、吉村鉄之助の別荘に避暑滞在中津波により死亡、6歳だった。
遺骨は鵠沼在住の退役海軍大佐松岡静雄により、差し向けられた軍艦で東京に運ばれた。(ウィキペディア) 

このほか、藤沢橋交差点(藤沢686)鼻黒稲荷・砂山観音に記念碑、「嗚呼九月一日」があるが、寄り道70で採り上げた。本稿作成に当り資料は、藤沢市文書館の司書にお世話になりました。東日本大震災についてはウィキペディアによった。また、藤沢における関東大震災被害状況については、鵠沼公民館に常設展示がある。また展示は2月毎に更新されるので、ウォークのついでに立ち寄ってみることをお勧めします。最近では「相模国準四国八十八箇所」の展示があった。 以上