寄り道・道草85
秩父宮記念体育館と秩父宮別邸跡

 八柳 修之

 FWAウォカーなら誰でも知っている秩父宮記念体育館。住所は鵠沼東8−2。藤沢駅南口から歩いて10分ほどの所にある。館内に入ると正面脇に秩父宮と体育館の関係を示す展示があり、秩父宮がお使いになった竹刀と剣道着などが展示されている。

 説明書きにはこう書かかれてある。「秩父宮雍仁(やすひと)親王は1902年(明治35)6月25日、大正天皇の第二皇子として生まれました。幼名は淳宮、昭和天皇と一才違いでした。1910年(明治43)に制定された「皇族身位令」によって軍隊に入隊することを余儀なくされました。雍仁親王は、1917年(大正6)、学習院中等科を卒業した後、陸軍に入隊、第三連隊中隊長、弘前第三一連隊大隊長、大本営(戦争指導班)参謀などを勤めました。戦時中に結核をわずらい御殿場で療養生活を送り、戦後、1952年(昭和27年)1月20日から鵠沼に移住、翌1953年(昭和28年)1月4日没、鵠沼は最期の地となりました。(僅か50歳の生涯であった)

 雍仁親王は幼少期よりスポーツを好まれ学習院時代はもちろん、軍務にあったときもテニス,ヨット、スキー、登山などあらゆるスポーツの宮様として知られました。マッターホルンの登頂は特に有名です。

 没後、秩父宮殿下の事績編纂のほか、結核療養病棟やスポーツ会館の建設を目的とする秩父宮記念会が発足しました。この会には縁故地となった弘前市、御殿場市、藤沢市および名前にかかわる秩父市も参加しました。

 藤沢市では、ちょうど1955年(昭和30年)第10回神奈川国体の整備で体育館を建設中でした。そこで本体育館を「秩父宮記念」の名を冠することとし、明年ここに「秩父宮記念体育館」が完成しました。ここに展示された資料は生前秩父宮が使用されたもので秩父宮勢津子妃殿下から贈られたものです」とある。
 
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秩父宮体育館内 1階 御下賜品展示
秩父宮雍仁(やすひと)親王   秩父宮殿下と勢津子妃   愛用の竹刀と剣道着が展示されている。

秩父宮勢津子妃殿下

1909年(明治42年)〜1995年(平成7年)
父は旧会津藩士、松平容保の六男で外交官の松平恒雄。母は鍋島直大(侯爵、佐賀藩11代藩主の娘)。の長女、ロンドンで育ったこともあって英語は堪能。生涯、結核撲滅運動に関わった。
享年 86


 鵠沼にはたった一年弱お住まいになられただけだった。お住まいになられた鵠沼別邸はどこにあるか。
鵠沼といっても広い。しかし、体育館から歩いて10分ほどの所にあった。体育館脇を通る467号線、藤沢南消防署と保健所との間の信号を渡り明治安田生命と薬局の間の道を進むと右に高砂公園、続いて旧江ノ島道と交差、左角石上保育園、さらに進み江ノ電石上駅横の踏切を直進、橘通りと交差する角。石上駅から4分余り、天理教会神奈川台分教会所有の広い土地、ここが秩父宮別邸跡である。(住所は鵠沼桜が岡1丁目―1―22)

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広い門構え、往時ならば守衛かポリスボックスがあっただろうが、門には来宅を告げる来客を告げるインターホンが無いので敷地内を通り石段を上る。その先が会長居宅であった。距離が長いので不法侵入しているではないかと思ってしまう。アポなしであったが、奥様に快く邸内を案内していただいた。

 ここ秩父宮別邸跡は、2012年、ウォーキングの例会で邸内を見学させていただいたことがあった。そのとき、仲野分会長から伺った話の記録がある。「秩父宮殿下には肺結核の療養地を探しておられたところ、和光堂という製薬会社の社長の別荘に白矢が当たり譲渡された。一階にはダンスホールや五右衛門風呂もあったという話です。昭和28年1月、秩父宮殿下が崩御された後、勢津子妃殿下は約1,000坪の敷地と居宅を藤沢市に買取を打診されたが、市は財政難を理由に成立しなかった。その後、天理教会が買い取り、昭和45年、取り壊し、コピーする形で以前と同じ居宅を建築しました」という説明であった。

 コロナも収まり、足をのばして伺ってみたところであった。奥様の話ではFWAは2〜3度、団体で見学したこともあった由で、お庭で弁当を食べたこともあったことを覚えているとのことであった。


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殿下がお住まいになった当時の居宅
 
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現在 お庭は変わっていない。
 
      今も残る当時からの石灯篭。
皇室の御印が僅かに読み取れる。