寄り道・道草86
山本庄太郎と江ノ電

 八柳 修之

 遊行寺赤橋脇にあった江ノ島道一の鳥居を起点とする江ノ島道。藤沢駅南口ファミリー通りを直進すると、左に砥上公園、ここには杉山検校が建てた江ノ島弁財天道標があり、またここを通った鴨長明は「浦ちかきとがみが原に駒とめて 固瀬の川をしほひをぞまつ」」という歌を残しているとある。ここらは平安・鎌倉時代「砥上ヶ原」と言って、芦の生い茂る湿地と砂原であった。続いて右側に石上神社、角の保育園を過ぎる辺りから下り坂、低地となり大源太小公園に突き当たる。かつて、この辺は境川が曲流になっていてごく最近まで川袋と呼ばれ低地となっている。公園には江ノ島弁財天道標が建っているが、最近、片瀬公民館の駐車場にあったものを移設したものである。かって川袋の大源太は片瀬川(境川)の渡河地点の一つであった。江ノ島詣での人々は干潮時、歩いて対岸に渡るか、あるいはここから江ノ島までの舟に乗った。休日、上山本橋から江ノ島までの舟を出したら面白いと弥勒寺さん、岡村さんと観光協会に提案したが、同じような提案が「散歩名人inふじさわ」の著者、作家佐江衆一さんからあったが県の所管で河川法上できないということであった。

 奥田橋〜上山本橋間は私の散歩道の一つであり、時折、ぼらが遡上しジャンピング、ゆりかもめの大群がやってくる。橋が出来たのは1873年(明治6年)。当時、川口村(片瀬)の古くからの名主、後、県会議員を勤めた山本庄太郎(1919年没)が架橋し山本橋と名付けた。のちに下流の山本家の近くに「山本橋」が架橋された際、上山本橋と改名された。山本は鵠沼から江ノ島までの砂地の払い下げを受け、植林し宅地化し財をなした。

 1902年(明治35年)9月1日、江ノ島電気鉄道が藤沢、片瀬間に開通したが、その開設にあり庄太郎は尽力している。当初、江ノ電のルートは県道に敷設する案であったが、道幅が狭く拡幅する必要があり沿道にある家屋をすべて移転する必要があったことから山本は強く反対した。しかし反対するばかりではなく庄太郎は所有する土地を鉄道軌道用地として無償譲渡している。藤沢・片瀬(現在の江ノ島)間は3.4q。停車場は藤沢、石上、川袋、藤ヶ谷、鵠沼、新屋敷、西方、浜須賀、山本橋、片瀬。使用車両4両。停車場と言っても路面電車、かってあった都電のようなものであった。(その後の江ノ電については別途、稿を改めたい)
 
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片瀬川鉄橋を渡る江ノ電   開業当時の江ノ電
 鵠沼停車場ですれ違う
  山本公園 大望の像

 山本家の功績は、庄太郎の息子たちも挙げなければならない。次男の信次郎は父親の持ち家をマリア会の別荘として貸していたことから、マリア会の暁星中学に通学した熱心なカトリック教徒で海軍武官を務めた。退官後、片瀬海岸2丁目の約3万坪を分割して分譲している。山本橋の袂にある和風建築の片瀬カトリック教会の聖堂はもともと山本家の堂として建てられたものであり、敷地内には湘南白百合学園があった。のち西浜の山本公園の土地は庄太郎の長男百太郎から寄贈されたものである。山本家が寄贈した山本公園、現在は名を替えて西浜公園となっている。園内に山本家の功績を記した大望の像があるが読む人は少ない。

参考・引用文献:「湘南の誕生」W。大矢悠三子、江ノ電の開業 藤沢市教育委員会
 (注)HP「鵠沼を巡る千一話」渡部瞭、湘南高校地理の教師を退官後、鵠沼の地歴を集中的に調査、研究。 私は数回、先生のお話を伺ったことがある。良い先生だった。画像はいずれも無料画像