五街道一人歩き旅


大和田 精吾

ウォーキングを始めて約1年半後の2013年10月6日に東海道を日本橋から歩き出したのが、街道ウォークの始まりでした。妻にもウォークの仲間達にも誰にも言わず、朝一番の東海道線に乗って日本橋に着いて地図を頼りに勇んで歩き始めました。この日が街道ウォークに嵌まった記念すべき第一歩になろうとは夢にも思いませんでした。

東海道 2013年11月7日完歩   →   *日本橋~京都三条大橋 495km15日間7泊
日光街道 2013年12月12日完歩  →   *日本橋~日光東照宮 145km4日間1泊
奥州街道 2014年1月10日完歩  →   *宇都宮~白河 85km2日間2泊
甲州街道 2014年2月3日完歩   →   *日本橋~下諏訪大社 210km6日間3泊
中山道 2014年5月18日完歩   →   *日本橋~京都三条大橋 540km16日間14泊

*上記距離は間違う事無く歩いた場合の距離。実際に歩いた距離は東海道535km。中山道575km。他の3街道はそのまま。

五街道のウンチクは若輩者の自分が語っても釈迦に説法になりますので体験談話とさせて頂きます。地方を歩いて一番嬉しく感じたことは、小学生から大人達迄挨拶を返してくれたことでした。
どこから来たのですか?どこまで行くのですか?頑張って下さい、と言われると元気が出ます。日本橋では記念写真を撮って貰おうと道行く人にお願いしたのですが、迷惑そうな顔をされて結局記念すべき写真は撮れずじまいでした。(早朝だった為、皆さん急いでいて私みたいな暇人とはつき合っていられなかったのではと思いますが)最初はかなり意気込んで歩きました。何日で京都三条大橋にたどり着けるのか?不安と期待が入り混じっていました。ですから宿場や一里塚等ゆっくり見る余裕が有りませんでした。下調べをして地図等も周到に準備したつもりだったのですが、殆ど初めて行くところだったので、地元の人に道を聞きながら歩きました。藤枝でその夜泊まるホテルが分からず、配達中の40歳位の女性に聞いたところ、スマホを出して素早く検索してくれました。これは凄い!これがあれば地図なんて必要ない。舞阪から一旦帰って翌日直ぐに買いに行ったのは言うまでも有りません。街道歩きの醍醐味は、やはり車では味わえない、その土地の風景や生活感、生活臭を肌で感じられることです。
 
妻籠宿

そこで五街道を完歩して感じたこと、出来事10傑を挙げます。

①完歩した時の達成感→各街道を完歩した時の達成感もさることながら、やはり京都 三条大橋に最初に辿り着いた時の感動は生涯忘れることは無いでしょう。
②ミニパトカーでの補導→間違えて沼津バイパスの側道を歩いてしまい、出口で捕まりました。たまたま身分証明書を持っていなかったため、酒は飲んでいないか?しまいには藤沢警察署に連絡されてしまい、家出人捜索は出ていないか?(妻に電話するも繋がらず)等色々尋問され、人生初めての職務質問を経験しました。
③和田峠での昼食→誰も歩いていません。と言うより人がいません。昔の茶店は廃屋になっています。車も10数台すれ違っただけです。(142号線に新和田トンネルが出来たため、中山道に迂回する車が激減)途中で握り飯を食べたのですが、猿が嗅ぎつけて来ないかと周りを警戒しながら食べました。ちなみに碓氷峠で猿の親子連れ、和田峠で氈鹿に目の前で遭遇。熊出没の標識が至る所で見かけましたが残念ながら出会いは有りませんでした。
④大雪での断念→2月14日の大雪が1週間経っても大量に残っており、歩くには危険な状態で中山道3日目の籠原で断念せざるを得ず、見通しの甘さを痛感しました。
(3月から4月中旬迄街道歩きを断念しました)
⑤坂道が少ない→キツイ坂道が思ったより少なかった。東海道では箱根峠、鈴鹿峠。中山道では碓氷峠、和田峠が難所と言われていますが、その他の峠は距離も短く意外と緩やかだったことです。日光街道、奥州街道に至っては殆ど平坦と言っても過言では有りません。
⑥旅館、民宿には客がいない→ビジネスホテルは別ですが地方の旅館、民宿には殆ど私の他に泊り客は居ませんでした。湖南市では2泊したのですが2日とも私一人の貸切状態。塩山市でも同様。長和町では他に一人、木曽福島でも一人でした。ウィー クデイのせいかも知れませんが。
⑦木枯らし紋次郎と同じ街道を歩く→笹沢佐保原作のあの名台詞、「あっしには関わりござんせん」でお馴染みの木枯らし紋次郎。その紋次郎と同じ街道を歩きました。「洗馬から2里、中山道を南へ歩くとそこは奈良井宿だった。左頬に傷をおって、口には長い楊枝を咥えたその旅人は上州新田郡三日月村生まれ。人呼んで木枯らし紋次郎」私は紋次郎シリーズ全巻集めた程の自称紋次郎ファンです。その紋次郎と 同じ街道を歩くことが出来て大感激でした。
⑧無人駅→中央本線の贄川駅から塩尻のホテルに戻る時、駅には駅員がいません。切符は?乗り方は?駅には誰も居らず思案していたら、自転車で中山道を走破している若者2人が来た。事情を話すと一緒になって構内に貼ってある張り紙を探して乗り方を調べてくれました。地方に行くと無人駅の多いのに驚かされました。
⑨街道歩きの人達と地元の人との出会い→中山道民宿「みわ」では御歳63才藤沢市鵠沼在住の木村さんと同宿。有給休暇を取りながら2年程掛けて中山道完歩を目指しているとのこと。酒を酌み交わして道中談義に花を咲かせました。野州では大宮から35日掛けて此処まで来たと言うゆっくりウォークの小山さん御夫妻。定年後お二人で街道ウォークを楽しんでいるとのこと。又何処かの街道で会いましょうと別れを告げたが、今頃何処を歩いているのか再会出来たら奇跡です。大湫ではバス停のベンチを借りて一服していたら、傍らのお地蔵さんに毎日花を入れ替えに来ていると言う80才は優に過ぎていると思われるお婆さんに会いました。お地蔵さんをバックにそのお婆さんの記念写真を撮りました。私の分もお願いしたのですが、スマホが初めての為中々上手く撮れません。15分程掛けても撮れず申し訳なく思い一度断りを入れたのですが一生懸命押し続けています。コツが分かったと言って綺麗に撮れたのはお願いしてから30分は経っていました。お陰様で良い記念写真が撮れました。お婆さん有難う御座いました。

 
大湫のお婆さん

 
小山さんの奥さんと

⑩再び五街道を歩くとしたら→やはり中山道です。これは五街道を歩いた人ならば異論が無い所だと思います。特に木曽路から細久手に抜ける旧中山道は当時の古蹟を偲ぶには余りある物があります。一里塚も各所にそのまま数多く残っています。皇女和宮が江戸に降嫁した時の道中碑もかなりの宿場に残っています。ぜひ再走破したいと思います。


徳川幕府が整備した五街道はその当時「入り鉄砲に出女」と言って関所が設けられ、地方に行くには寺社奉行、名刹の住職、大名主の通行手形が必要でした。気儘に旅など行ける環境では有りませんでした。殆どの人達は生まれ育った土地を離れる事無く一生を終えたと聞き及びます。現在は暇(時間)と多少のお金(節約しながらの旅)があれば自由気ままに何処へでも行けます。この幸せを噛み締めながらこれからも街道歩きを続けたいと思います。


三条大橋にて