藤沢の水運、フランチャイズだった片瀬湊

八柳修之
藤沢宿は近世、東海道、脇往還の中原街道、八王子街道、信仰の大山道、江ノ島道など交通の要路として栄えた。一方、明治20年7月、藤沢駅が開業する以前までは、大量の物資を輸送するには境川を使った川船や廻船による輸送があった。
私の散歩道である境川左岸を河口に向かって行くと、新屋敷橋の手前に馬喰橋という小さな橋がある。川を跨ぐ水道管の上でカワウが羽を休めている所、ゴミトラップがある所だ。
案内板には源頼朝が川を渡るとき、鞍をかけて渡ったと伝えられ、また、この橋の近くに荷揚げ、荷積みした河岸(かし)があったということを僅かに伝えている。

調べてみると、ここが廻船の玄関口(新屋敷橋付近から下流は片瀬川と呼んでいた)であったとされる片瀬湊(浦)であった。片瀬湊に廻船が停泊する様子は「相中留恩記略」に描かれている。
馬喰橋(うまくらいばし)  右岸から見た片瀬湊があった辺り 
   
「相中留恩記略」に見る片瀬湊  廻船のイメージ 

江戸時代前期には藤沢の年貢米などは、片瀬湊から江ノ島の西浦(岩本楼の裏辺り、参道、ハルミ食堂右の細道入る)へ廻船で運ばれ、西浦で親船(千石船)へ積み替えられ江戸などへ輸送された。また江戸からの荷は西浦で陸揚げされるか、艀や小舟を使って上流の片瀬湊まで運ばれた。多くは浦廻船という100~300石積の河川も航行できる五大力舟と呼ばれるものであった。
   
五大力船  江ノ島西浦 

なぜ、片瀬湊はこの地点にあったのだろうか。現在の川の流れ、水量を見ると考えられない。勿論、当時は上流にダムなどある訳でなく水量も豊かであったろうが。川岸を歩くと新屋敷橋辺りまで両岸にプレジャーボートの不法係留が見られる。これは舟が容易にこの地点まで遡航できるということである。
つまり片瀬川の河面の高さが海面の高さと同じになる。流速や水位が潮の干満の影響を受けて変動する川、人文地理でいう感潮河川であるいうことである。その変動区間は現在ボラが飛び上がるのが見られる奥田橋付近まであろう。
   
境川 大正橋  蔵前 榎本米穀商土蔵 

昔は境川と柏尾川の合流点を超え、大正橋の付近、蔵前と呼ばれた辺りまであったと思われる。現在、蔵前ギャラリーとなっている榎本元米穀物商の土蔵は、江戸時代に年貢米を納入する蔵であったという。

幕末、片瀬湊の積荷は、移出されたものは麦、蕎麦、大豆などの雑穀、紫、紫紺、綿類、丸太、板、竹など林産品、移入されたものは酒、米、塩、醤油などの調味料、肥料、小間物、荒物、瀬戸物、紙などの日用雑貨であった。
また、ここには運上役場がおかれ、船宿もあり、藤沢宿周辺の物資の出入地として重要な位置をしめていたという。

時代が下って、明治20年7月、藤沢米穀肥料組合(組合員数29名、組合長関野次右衛門)が設立され、組合は馬喰橋付近に600坪を購入し、共同倉庫を建設、肥料の荷積が行われたという記録がある。その場所は現在、住宅地となっているが以前、空き地で駐車場があった所ではないかと思われるが確証はない。

   
関次商店土蔵内(公開時撮影)  紋十郎河岸のあった辺り 
   
また、片瀬湊の下流、境川の右岸、ポンプ場付近(鵠沼の景観10選―7 遊歩道と松とボートの撮影地点付近)に紋十郎河岸という荷揚げ場があり、南部の本村、羽鳥、明治村に荷を運んだ渡しがあったという。  完

出典・参考資料
「藤沢市史 第6巻」藤沢市、「藤沢史跡めぐり」藤沢文庫刊行会編
「地理用語集」山川出版、「世紀の旅路 一肥料商百年の記録」私家本
(藤沢市総合図書館所蔵)「藤沢の地名」日本地名研究会編 など

 
 追記:本文下から8行に運上役場跡は、その後、藤沢米穀肥料組合の倉庫、駐車場となり、現在住宅地となっているところではないかと思うが確証はない。と記しましたが、6月12日、ハンドルネーム片瀬の歌様から次のような経緯を記した投稿をいただきご説明がありましたので追記します。片瀬の歌様、どうも有難うございました。(筆者)

「その場所は現在、住宅地となっているが以前、空き地で駐車場があった所ではないかと思われるが確証はない。」とありますが、馬喰橋付近で宅地化したところというと、おそらくパイニイの向かいにあった、やまかストアの社員寮と倉庫のあたりでしょうか。
社員寮としてはあまり使用しなくなり、2000年代初頭まではライナスというフリースクールに貸し出しており、そこが学校法人化して小田原に移転すると同時に、寮と倉庫を取り壊して宅地化したものと思われます。
もとは食料品店の倉庫ですので、藤沢米穀肥料組合の倉庫であったというのも繋がる気がします。