辻堂駅開業100周年と浜辺の歌

八柳修之
 辻堂駅は大正5年(1916)12月1日に開設され、今年12月開業100周年を迎える。藤沢駅が開業したのは明治20年(1887)7月、当時、辻堂で生産された甘藷、野菜、魚類等が京浜方面に出荷されるようにはなったが荷物は藤沢駅まで運ばなければならなかった。明治31年(1898)6月には茅ヶ崎駅が開業、列車運行上の必要性から大正2年(1913)4月に辻堂に信号所が設置された。住民の間からは駅設置の声が次第に高まり、大正3年3月、地元名士住民39名によって「辻堂停車場設置期成同盟会」が結成され、鉄道院総裁宛てに請願書が提出された。

 特筆されることは駅敷地として指定の場所に土地1200坪の無償提供を申し出たことであった。これは地元請願駅で、いわば民衆駅のはしりと言ってよかろう。これは国側にとって恰好の申し出でもあった。明治39年、海軍横須賀鎮守府が辻堂海岸に40町歩余の軍用地を買収、演習のための物資の輸送が緊急の課題となっていたことから話が進んだ。土地の無償提供は最終的に2,500坪にされたが、これを受諾し敷地と道路用地買収のため、住民153名から総額2,483円の寄金が会った。駅舎は3か月余りで完成し大正5年(1916)12月1日辻堂駅が開業した。駅南口派出所横に当時の苦労を伝える記念碑がある。

 開業当時、駅利用者一日平均数は225人、昭和20年2,501人、昭和41年(50周年)47,116人、長らく4万人台で推移していたが、2011年に「テラスモール湘南」がオープンしてから5万人を超え、2015年、57,351人を記録している。

 ことし12月1日、開業100周年を迎えいろいろな行事が予定されている。発車ベルも駅メロに替え、♪~あした浜辺をさまよえば~♪で始まる「浜辺の歌」にするという。歌詞は林古渓、作曲成田為三、この歌は林が幼い頃の辻堂海岸の思い出を作詞したというのが通説だが異論もあるようだ。調べて見ると林古渓は神田の生れ、幼少時、愛甲郡古沢村で過ごし、古渓の筆名は古沢村から採ったという。父、竹次郎が羽鳥学校(明治小学校の前身)の教師をし、羽鳥に住んだことがあったというから辻堂海岸に行ったことはあろう。10歳のとき父を亡くし、小笠原東陽の紹介で池上本門寺に入り修行、哲学館(のちの東洋大)で国漢を学び教師となった。教科書では二番で終わっているが、実は三番があり「赤裳(あかも)のすそぞぬれひじし やみし我はすでにいえて 浜辺の真砂 まなごいま」とあり、病気等で子供と別れた女が治癒し、今、我が子がどうなっているか歌ったものと解されている。
参考:藤沢市史、ウィキペディア「林古渓」等