米長 修 | |
なげ入れの干からびている間の宿(あいのしゅく) 間の宿と呼ばれる宿場と宿場の間にある宿屋は、滅多に客が泊まらないので、花瓶の花が干からびていると言う写生句である。私は現役時代営業マンだったので全国に出張したが、地方のひなびた旅館に泊まった時、フロントの花が萎れて首を垂れているのを見て、この句を思い出して思わず吹き出してしまったことがある。250年たっても、成程うまいことを言うなあと、はたと膝を叩いて感心させてしまうのが江戸川柳の魅力である。 男じゃと言はれた疵が雪を知り それでこそ男じゃと言われた若いころの喧嘩疵が、年老いた今冬の寒い夜に疼いて、どうやら明日は雪かと知るというもので、血気盛んな暴れん坊の晩年をしみじみ描いている。 母の名は親父の腕にしなびて居 片肌脱いで涼んでいる年老いた父親の萎びた腕に、こはる命と母の名の刺青が残っている。こんな親父でも、若いころ熱烈な恋愛をしたんだなあと息子が感じ入っている図。 こしかたを思ふ涙は耳へ落ち 耳へ落ちのひとことで、夜寝付かれないままに、今までのつらく悲しい人生を振り返ると、涙がこみあげて目じりから流れ落ちる哀れな女の姿が浮かび上がってくる。しんみりしたところで、私の好きな、教養があって上品に見えて、実はエッチな句を紹介します。 新しい内女房は沖の石 この句は百人一首の わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし(恋人を想う涙で私の袖は沖の石のように人知れず濡れて乾く間がありません)の文句取りで、上品に見えるが、実は結婚当座の新妻は人の知らないところがいつも濡れているというもの。 秋武蔵夏業平に冬小町 季節と有名人を並べた句だが、春三夏六秋一冬無しといって、江戸時代夫婦の交 ![]() 江戸川柳は、故事、日常生活から大奥や遊女の世界まで、情緒とユーモアとエロチシズムをちりばめて詠んでいますが、紙数がなくなりましたので、この辺でペンを置きます。 |