米長 修 | ||||
弟が小学6年の時山梨の将棋大会で初段未満の部で優勝しました。審判長の佐瀬プロ七段が飛車角落ちの指導将棋を指し、翌日アマ有力者と我が家を訪れて、この子は将来名人を争うところまで行く才能がある、小学校を卒業したら私の内弟子になってプロ棋士を目指していただきたいと熱心に両親を口説き落としました。5年後に宮城に中原という小6の天才がいると聞いて、高柳八段が飛車角落ちで試験をし、この子は将来名人になるといって内弟子にしました。藤井七段は小学6年の時プロの二段で、佐瀬七段や高柳八段クラスとハンデなしで戦っても互角のレベルでした。しかもプロアマの詰将棋大家約100人が10問の超難解詰将棋を解く詰将棋選手権で、12歳の藤井少年が優勝してしまったのです。小学6年の時弟とは既にとんでもない大差がついていたのでした。ただ不思議なことに弟や中原と違って、この子は将来名人になると誰も言いませんし今も言われておりません。 果たして将来名人になるかどうか、私の発見した法則で、この手記の最後に教えます。 弟の中学時代は内弟子修行で、かなり辛い思いをしたらしく内弟子時代の話をしたことがありません。 中学を卒業するときはプロ二段、小6の藤井七段と同じでした。一方中3の藤井少年は四段になるや29連勝を飾り、四段グループで優勝して五段になり、羽生永世七冠らを破って朝日オープンで優勝し、短期間で六段になりました。詰将棋選手権では毎年優勝し、四連覇を達成しました。中3の時は小6のとき以上に弟とは差がついていたのでした。 高校に入るとさらに連勝を続け、わずかの間に七段に上ったのはご存知の通りです。弟の時代はコンピューター将棋は弱く、将棋は人間対人間の勝負であると捉えられていました。弟は将棋が強くなるには、辛い内弟子修行を体験し、実戦で修羅場をくぐり、交際範囲を広げて人間性を高め、勝利の女神に好かれるよう笑い笑わせることを心掛けなくてはならないと信じ、実行して中原永世名人と並ぶ時代を築きました。 藤井七段は、将棋は純粋に知能のゲームであり、強くなるためには内弟子経験、修羅場、人間性、勝利の女神は全く関係ない、必要なのはAIを相手に研究することだと考えている節があります。昔の勝負師という人間臭さは影を潜め、研究者の時代になったのです。
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