随筆


モータースポーツの始まり

片山 忠夫

 ウォーキングでは皆様と楽しく歩く機会を与えて頂き有難うございます。年初の「湘南ふじさわウオーキング協会 20年のあゆみ」で、協会発展の推移がよく分かり、発足からの役員・スタッフのご苦労の様子を、また入会後の例会記録を大変懐かしく拝見し20年の歴史を感じました。

 さて、私は若い頃からモータースポーツに興味を持ち、初めは参加者とし、その後は自ら走ることに周囲の反対もあり、競技を
片山忠夫さん
サポートする側に立つことになりました。モータースポーツには、レース、ラリー、ジムカーナ、ダートトライアル、レーシングカート等のカテゴリーがあります。レースには、世界選手権のF1に始まるフォーミュラカーから、ル・マン24Hのようなスポーツカー、普段街で見かける乗用車によるツーリングカーと呼ばれるものまであります。

 また、レースと言っても分野が広く、レースができる場所、つまり野球やサッカーのスタジアムに対するレースでのサーキットに注目してみました。現在レース場は、北から北海道の十勝、宮城の菅生、栃木のもてぎ、茨城の筑波、千葉の袖ヶ浦、静岡の富士、三重の鈴鹿、岡山の国際、大分のオートポリスとあり、審判員として仕事が終わった金曜日の夜から現地入りしました。

 ここで、我が国のレースの歴史を知るためにレース場を調べると、大正11年に洲崎埋立地で行われたのが我が国最初のレースといわれ、その後立川飛行場、鶴見埋立地飛行場、代々木練兵場、月島埋立地等の仮設サーキットでした。そこで誕生したのが常設の多摩川スピードウェイで、昭和10年、土地の使用権を持つ東京急行電鉄が協力し、場所は現在の川崎市中原区の丸子橋上流河川敷でした。当時は東洋一の競走コースといわれ、一周1200メートルの楕円コースで3万人が収容できたそうで、現在もコンクリート製の観客席跡だけが残されています。

 後に本田技研工業の創業者となった本田宗一郎さんも愛車「浜松号」で出走し、周回遅れに追突横転し本人は宙を飛ぶ大事故になったそうですが惨事に至らず、後の鈴鹿サーキット建設や、F1挑戦に繋がる原点になったそうです。昭和11~13年まで4年間使用され、戦況の悪化から国家総動員法が発令されると共にレースは中止となってしまいました。東急東横線で多摩川の橋梁を渡る時に渋谷に向かって左側の車窓から、川崎側に遊歩道が設けられた広場があり、土手に築かれた階段状のスタンドを見ることができます。

 強い日差しを避けながら、自分が生まれた当時の大歓声を想いつつ背丈ほどの草が茂る中を歩いて「夏草やつわものどもが夢のあと」を実感してきました。現在は年令と共に、以前の様には歩くことが難しくなりつつありますが、これからも頑張って例会に参加し、会の趣旨である健康寿命の延長に努めていきます。
 出典「多摩川スピードウェイ熱戦譜」大田観光協会