嵐山光三郎著「夕焼けの少年」       子供の目から見た戦後の藤沢宿

八柳修之
終戦直後の藤沢宿、どんな状況にあったか関心があった。ふとしたことから、嵐山光三郎の「夕焼け少年」という本を見つけた。(1988年、第1刷、発行:集英社、定価850円)。戦後の藤沢宿の辺りの様子が子供の目と体験から描いた自伝的小説である。私は著者より4歳年上だが、ほぼ同じ時代に育った者のとして全国どこにでもあった風景、懐かしさ、温かさを感じる作品であった。「想い出を語り合うことは、歩くこととともに脳の活性化、健康にもよいという」のが脳学者茂木先生のお話である。本稿は全文275頁を要約したものである。
嵐山光三郎、1942(昭和17)年、静岡県浜松市生まれ、作家、エッセイストである。タモリの「笑っていいとも」(フジテレビ)の編集者としてレギュラー出演していたから、ご存知の方も多かろう。略歴によると1950(昭和25)年から国立市に育つ、父は朝日新聞社勤務であった。

   藤沢小学校正門(無料画像より)   藤沢市立藤沢小学校

明治5年(1872) 成美舎の開設を藤沢小学校の創立とする。
明治34年(1901)現在地に校舎を移設する。
昭和47年(1972)創立100周年 プール完成


小説によると、主人公青井祐太一家は1948(昭和23年)4月、静岡の祖父の家から引越して来て藤沢市本町裏のポンポン長屋に住んだ。祐太は6歳で藤沢小学一年生に入学したばかりである。父青井宣太郎(34歳)、除隊後、静岡で一時、無料で英語教室を開いていたこともあったが、現在は発明家で新橋にある旭発明学会研究所の職員。卓上蠅取り器、練炭不燃防止装置、小型鯨油石鹸、万能輪ゴム、イモ煎餅焼き器、ドラム缶風呂用入浴台、井戸水洗浄セット、簡易米つき棒などなどいずれも宣太郎の発明、懐かしい品もある。母美子(30歳)は専業主婦、祐太は母のことを「お母さん」と呼ばず、「美子さん」と呼んでいた。
ポンポン長屋は三軒続き、祐太の家は北側、真ん中は満岡春郎(37歳、新聞記者)、きみ子(7歳)、やちん〈6歳〉、母親はいない。南側が斎藤秀次(45歳)テキヤの親分、妻ハナ(41歳)、銀二(21歳)テキヤ、ルリコ(20歳)、サトシ〈6歳〉である。ポンポンとは斉藤さんの屋台名、家の前にポンポンダリヤが咲いていたことからも皆、ポンポン長屋と呼んでいた。祐太、やちん、サトシ三人揃って藤沢小学校一年生である。
本町通りには歯科医の息子清水君がいたが、黒人兵の運転する車にはねられ死んだ。3人は長屋裏の香月神社(白旗神社)に来る紙芝居、「黄金バット」「サーカスの少女」「妖怪海坊主」などを夢中になって見た。
焼け跡の町に沈んでいく夕陽が鮮明だった記憶からこの本のタイトルとなっている。祐太は藤沢に来て体験するもの全てが初体験であった。ジープに乗った進駐軍、駅前の活動写真の看板、進駐軍と手をつなぐオンリーさん、闇市の細い路地、浮浪児の一群。浮浪児たちは徒党をなして盗みを働いていた。祐太もやちんも町へは決して一人で行ってはいけない、と親からきつく言われていた。闇市の奥には紅灯があったからである。食べ物はスイトンとサツマイモ、ツルも煮て食べた。美子さんは嫁入り用の着物をサツマイモと交換した。カバヤキャラメル、おまけのカード、カバヤブンコの六文字を集めると世界名作文庫のポケット版が貰えた。

1月、帝銀事件、行員12人毒殺。5月、横浜国際劇場でデビューした美空ひばり。新聞紙でつくった進駐軍の帽子、6月13日、作家太宰治、玉川上水で情死。家を出ていたサトシの姉が黒人兵のオンリーとなり帰る。ハーシーチョコレート。ラッキーストライク。バーボンウィスキーなどを貰う。
8月夏休み、白旗神社の近くの中井川(白旗川)は川幅7m、竹のヤナを仕掛け、フナ、ハヤ、ドジョウを獲った。アメリカザリガニは焚火で炙って食べた。8月8日、古橋広之進、神宮プールの日本学生水上競技大会400mで世界新記録、「第一のコース、フルハシクーン、ニチダーイ」「第2のコース ユータクーン、ポンポンナガヤ―」「第3のコース、ハシヅメクーン、ニチダーイ」3人は排水口の上に立って「ヨーイ・ドボン」

9月、アイオン台風、死者、行方不明者2,300名余、とくに東北地方の被害、全壊家屋4,500戸、流失家屋1,300戸、祐太の家は屋根が壊れ、家具、布団は水浸し。裏側のどぶ川は下駄、手拭、紙の箱、しゃもじ、ゴミ入れ箱、箒、セルロイドの玩具、人間の生活がどぶ川に集合したようだった。表通りの国道は看板や雨戸のたぐいが飛び散っていた。白旗川の丸木橋が流され、水が道路に溢れ、魚が跳ね、やちんと採りに行った。ジイチャンとバアチャンがミカンを沢山もって水害見舞いに来た。美味しかった。

     
白旗神社の前を流れる白旗川    白旗神社例大祭の御神輿
(いずれも無料画像より) 

9月、担任の野中先生が1年1組の生徒を集めて「チャンバラごっこは禁止です」「どうしてですか」「棒を振り回すと危ないからです」「じゃあ、三角ベースはどうなんですか」「野球はいいのスポーツだから」。占領軍司令部が昭和27年発表した「日本教育制度に対する管理政策」では「忠臣蔵」のように仇討を内容とする興業は禁止されていた。「桃太郎」の本も発禁とされた。教科書からは、兵隊ごっこは勿論、水兵の母、神軍、仇討、真剣勝負、神社、神輿、果たしあいなど墨汁で塗りつぶされた。五月人形の鍾馗様も丸腰となった。チャンバラ禁止令は占領軍からのお達しであると野中先生は言った。
9月、5年間禁止されていた白旗神社の例大祭が開催されたが、神楽の奉納は進駐軍を呪う反米的行事だから許さぬという。前夜祭は境内で東日本拳闘選手権、フライ級王座決定戦は現チャンピオン白井と一位の石山健一郎の十回戦。リングサイド80円、指定席小人20円、ラーメン代とほぼ同じ。黒人兵が制止を振り切って参戦、9位の選手をKO,憲兵が駆けつけ逮捕される騒ぎ。

この年、横浜ゲーリック球場でナイターが始まる。三角ベースがはやる。1・2年生対抗、人数が足りないので女の子も入れた。川上、大下、千葉、祐太は川上フアン、メンコも16番、川上ばかり集めている。
小梅キャラメルには巨人軍カードが入っていた。青田、白石、平山、三原監督を入れて10枚集めると巨人軍バッチが貰えたが、なかなか三原監督のカードが集まらない。夕方、ラジオ尋ね人の時間があった。

11月12日、東條英機ら7名が絞首刑の判決。12月3日絞首刑執行。暮れに祐太は美子さんと駅前市民市場へ買い物に行った。バラックの市場通りはスイトンのような人混みだった。美子さんとはぐれてしまう。老婆がヒロポンを打っていた。市民市場にレコードが流れていた。「星の流れに」という曲、こんな女に誰がしたと、街じゅうが歌っているのだった。迷路を歩いているうちに、ガード下に掘立小屋があり、7人の浮浪児がたむろし煙草を吸っていた。靴を履いているのは2人だけ、親分格の浮浪児が祐太の襟巻をとりあげた。バアチャンが編んでくれたものだった。危機を救ってくれたのは手相占い師、実はデカだった。
辺りは危険だから一人で来てはいけないと言った。昭和24年元旦、祐太は美子さんに連れられて長屋裏の白旗神社へお参りに行った。神殿には日の丸が掲げられていた。この年からGHQが国旗の掲揚を許可していた。お参りする服はカーキ色の上着と半ズボン、宣太郎の軍服を美子さんが作り直したものだった。
元旦のお雑煮はスイトン。宣太郎は折りたたみ傘の制作に没頭、仕方がなく美子さんとおたふく福笑いをやった。祐太は社会思想社刊の「鐘の鳴る丘」が愛読書だった。

三学期、通信簿をもらってから、祐太はやちんとサトシと三人でキリスト教会の裏にあるカメラ工場倉林製作所のゴミ捨て場を漁った。レンズを見付け望遠鏡、鉛筆のキャップにセルロイドを細かく削ってつめロケットの燃料、祐太は父親に似て工作は得意だった。鉛筆キャップが、春の光を浴びて白銀色に光った一瞬、祐太には、それが数字の1の字に見えたのだった。桜の木の上に消えていく数字を見つめながら、自分の一年生時代が遠く飛び去っていくようだと思った。小説はここで御仕舞い。二年生から祐太こと嵐山光三郎は両親と国分寺市の学校へ転向して行ったと思われる。
子供の頃は一日、一年が長く感じたものだ。今の自分には自由な時間が沢山あるのに一日、一年が短く感じられるのは何故であろうか。 完     

平野武宏さん (元湘南ふじさわウオーキング協会会長、元藤沢市本町在住)からいただいたコメント。
 私は昭和17年11月生まれです。嵐山光三郎氏は調べると昭和17年1月生まれとあるので学年は1年上です。文中、藤沢本町とあるのは小田急線藤沢本町駅周辺で白旗神社も含まれます。長屋は白旗神社の裏にあったと書いてありますね。私の住んでいた場所は、現在の住所表示では本町1丁目ですが、以前は茅場町と言っていました。今でも町内会名は内出・茅場町内会です。環境も周辺国道に面した所で、白旗神社付近とは違いがあるようです。また、私の知っている藤沢の歓楽街は「新地」と言って、売春禁止法(昭和31年5月)の前までは賑わったようです。マンションなどが建ったため、飲食店は藤沢駅南口に移動しました。
新地は駅北口から藤沢小学校への通学路の途中にあったので学校は苦慮したようです。以上