藤沢宿をあるく(2)
さんこうどう

 八柳 修之

FWAは毎年カラー印刷の会報新年号やカードなどさんこうどうにお願いしている。宿場として栄えた藤沢宿、幕末には70軒以上の旅籠があったが、明治4年(1871)廃藩置県、明治20年(1887)、東海道線が開通し藤沢駅が開業するとともに街の中心歓楽街は次第に駅北口方面に移って行った。明治21年(1888)4月、大久保町と坂戸町が合併し藤沢大坂町となり、高座郡役場が御殿辺2020番地におかれた。(旧藤沢公民館)。これより先、明治18年(1885)2月、初代三光堂印刷所の祖、川上久兵衛が藤沢町川岸通りに三光堂印刷所を開業した。その9か月後、11月、中長大火事(藤沢宿三大大火事)で社屋が焼失した。印刷業の開業は高座郡役所が湘南地方の中心地となり官公庁関係の仕事が増えることを予測しての事で先見の明があったと言えよう。その後、明治44年(1911)、本町の鎌田福太郎の藤沢印刷、また旅籠町の高橋印刷所が開業し三つ巴となって昼夜兼行の機械運転は不況知らずの状態であったという。三光堂印刷所は川上久兵衛の後、川上久次が後を継ぎ社屋は榮町にあった。広文堂という本や文具の卸問屋を営んでいた時に使用していた蔵は文化的価値があり、取り壊された資材は復元される事を前提に市が保管していると聞くが、復元が待たれるところである。

 現在の「さんこうどう」は本町一丁目3−13にあるが、お隣の稲元屋とは実は姻戚関係にある。


初代稲元屋寺田三郎兵衛は文政7年(1824)藤沢宿川上九左衛門の七男として生まれた立身出世の人である。長男久次郎は実家川上氏を継ぎ久兵衛と称し、三光堂印刷所を興したほか、藤沢銀行の創立者でもあり、また辻堂開拓にも功あった人であった。昭和6年の藤沢町の工場は、蚕糸興業の従業員200人を別格とすれば、大和醸造32人に続き、三光堂印刷所26人となっていた。昭和24年(1949)、三光堂印刷所は個人経営から株式会社へ改組、現在は4代目川上彰久社長の下、資本金2,000万円、従業員30名を有する県下有数の印刷業者となっている。(完)
(参考引用:「藤沢郷土史」加藤徳衛門 図書刊行会ほか)