藤沢宿をあるく(3)
遊行寺と一遍上人

 八柳 修之



遊行寺、時宗総本山、正式名称は清浄光寺だが、正式名称をいう人はいない。他のお寺と違って入りやすいお寺であり、境内でプロレスさえ行われることもある。時宗は馴染みのない宗派である。かって例会で遊行寺を訪れたとき、案内してくれた僧侶が、「皆さんの中に時宗の方がおられますか」と訊ねたとき3人しかいなかった。確かに全国的に見れば知られていない宗派である。文化庁が毎年「宗教年鑑」を発行しているが、それによると、仏教で信徒が多いのは、浄土真宗本願寺派の792万人、真宗大谷派791万人が双璧、次いで浄土宗602万人、高野山真言宗383万人と曹洞宗351万人が拮抗、以下、日蓮宗136万人、天台宗、臨済宗と続き、時宗は約6万人(約400寺)となっている。もっとも信徒数は各宗派の申し出数であり、定義も曖昧である。いずれにしても、時宗はマイナーである。お寺からいただいた「時宗寶歴」によって概要を見てみよう。

時宗は700年もの昔、一遍上人が開いた念仏宗である。鎌倉時代、1274年、法然上人が浄土宗を開いたが、一遍上人は浄土宗西山派の開祖証空上人の孫弟子に当たる。浄土宗の流れを汲み本尊は「阿弥陀仏」、称えることばは「南無阿弥陀仏」である。「南無阿弥陀仏」を常にとなえて仏と一体となり、安らかで喜びに満ちた毎日を送り、やがては極楽浄土へ生まれることを願う教えである。なせ時宗と呼ぶのか。それは一日を4時間に分けて仏前でお勤めをし時間ごとに交代した。その人々を時の衆、「時衆」と呼んだ。徳川時代になって「時宗」と改められて宗派の名になった。

 
テキスト ボックス:
 配られるお札
「決定往生六十万人」とは、六十万人
の人々にお札を配ることを願い、また
次の六十万人の人たちに、ついには
全て人々 (一切衆生) に配ることを
念願されたものです。


一遍上人は1239年、愛媛県の豪族河野家に生まれ、幼くして出家、法然上人の孫弟子に当たる九州の聖建上人から浄土の教えを学ぶこと12年。のち信州善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟る。その後、全国遊行の旅に出て、「南無阿弥陀仏」ととなえ集まった人々にお札をIVVのごとく配り(賦算)念仏を勧めた。一遍上人は生涯お札を25万人に配ったという。遊行してから5年目、信州佐久で突然輪になって踊り出した。盆踊りのルーツだとする説もある。
遊行・賦算・踊り念仏は、時宗の三大行儀とされている。信州佐久から3年後、1282年、鎌倉入りを時の執権北条時宗に拒否され、片瀬の地蔵堂での踊り念仏を行った。ここでの踊り念仏は今までとは違い、高床に屋根付きの舞台が組まれ、踊っているのは尼僧たちだけで一般の参加はない北条時宗に抵抗するエライ坊さんがいる。尼僧たちが飛んだり跳ねたりする姿を見たくて鎌倉武士まで集まって来た。一遍上人は片瀬に結局5ヶ月半も逗留した。その後、尼僧を引き連れて遊行を堂々とやってしまう一遍、既存の仏教が女性を切り捨てたのに対し、女性も男性と同じに往生できるという先駆的な考え方であり、パーホーマーでもあったと東大の松岡心平教授は評している。時あたかも前年1281年には再び蒙古が襲来(弘安の役)し、人心は不安定な時期でもあった。一遍上人は寺院を建立することなく、薩摩から北は岩手県の江刺(現水沢市)まで約2000km遊行した。IVV4万kmを達成した人は凄いことである。1289年、50歳にして亡くなった。
遊行の様子を描いた「一遍上人聖絵」(国宝)が境内の博物館に展示されている。一度、見学されることをお勧めします。全体に暗い色調であるが、当時の一般の人々の生活ぶり、様子を知ることができる。

一遍上人の志は二祖他阿真教上人が継ぎ、代々の上人を遊行上人と呼んでいる。真教上人は各地に道場を建立した功績があった。遊行4代呑海上人(俣野荘の俣野五郎景平の弟)のとき、遊行をやめ1325年に藤沢に独居(定住)するようになったのが遊行寺の始まりである。時宗は足利、北条、徳川の庇護を受けたが、遊行行脚に対する信徒の接待費負担等の不満により信者が次第に減少、一向宗、浄土真宗に信者が移っていったという。遊行寺には見るべきる国指定保存文化財が沢山あるので、別途、触れたい。

 参考文献:令和2年「時宗寶歴」遊行寺  「藤沢と遊行寺」高野 修 藤沢市史ブックレット
 2000年11月19日 朝日新聞特集   「宗教年鑑」令和2年版 文化庁