藤沢宿をあるく(3−1)
藤沢警察署

 八柳 修之

幕末、藤沢宿を形成していたのは大久保町、坂戸町、大鋸町であったが、大久保・坂戸の二町は明治2年(1869)に合併して藤沢駅と改称した。藤沢宿の人口は、明治9年、藤沢駅と大鋸町を合わせて戸数は1,029戸、人口5,507人であった。明治新政府は明治4年(1871)7月に廃藩置県を実施、翌5年8月坂戸町常光寺の庫裏に藤沢宿ら卒屯所が置かれた。ら卒とは見守り兵卒、巡査のことである。

当時、巡査となりえた者は禄を失った足軽などの下級士族が多く警部以上はすべて士族であった。士族は特権意識が抜けず、サーベルをぶら下げ「おい、こら」と威張っていた。常光寺山門前には藤沢警察創設100年を記念して藤沢警察発祥の記念碑がある。ら卒屯所はその後、坂戸町の問屋場跡〈現藤沢消防署〉に移転した。問屋は宿駅で人馬の割り付け、管理を行う運輸業者であるが、宿の長、有力者がなった。坂戸町では平野家、和田家、杉山家が交替で長を勤めた。明治9年1月には屯所の管理範囲が拡張され、鎌倉郡の51か村と高座郡全村を管轄下に置き、神奈川県第九号警察出張所と改称、10年藤沢警察署と改称された。

下右は明治26年当時の藤沢警察署の写真、前列、着物を着た人達は町の有力者、後列洋服を着た人々はら卒、8名ほど見られる。大正14年(1925)、4月洋風庁舎が完成、大正15年、藤沢警察署は駐在所数4、警部ほか計33名となっていた。当時の警察取締に関する営業別戸数と言う統計があるが、これによると総戸数725戸。内訳は、多い順に並べると、古物商87、人力車業86、娼妓・芸妓74、髪結い・理髪55、氷販売業51、荷馬車業50、飲食店・料理屋48、豚商・牛豚肉販売31、産婆・看護婦19、旅人宿業16、医師・歯科医16、貸座敷11、質商10などとなっていた。宿駅制度が廃止されたとはいえ、藤沢は東海道の要衝であり、交通従事者としての人力車夫と娼妓が見られる。

 
 大正14年当時の藤沢警察署   明治26年当時の藤沢警察 

下って、昭和15年、警察取締に関する営業軒数調があるが、これによると古物商が最も多く142軒、飲食店業61軒、魚類商46軒、按摩針灸マッサージ45軒が続く。古物商が多いのは物を手放す人や盗品取締りのようだ。芸妓及び給仕人は戦時下に関わらず昭和14年末102人もいた。昭和29年7月、警察法改正により神奈川県藤沢警察署と改称され、昭和39年に本鵠沼4丁目に移転した。藤沢警察創設100年を記念して常光寺山門前に藤沢警察発祥の碑が建っている。現在の藤沢消防署の写真から見ると旧藤沢警察署を改造した建物ではないようだ。

参資資料:「藤沢市史」別編2 藤沢市   「わがまちの歩み」児玉幸多編 藤沢文書館 藤沢警察HP