藤沢宿をあるく(8)
藤沢御殿跡

 八柳 修之


藤沢市本町二丁目にあった藤沢公民館は、2019年4月旧労働会館敷地、Fプレイスと呼ばれる複合施設内に移転したが、移転前公民館があった一帯は、かつて徳川家康の御殿(宿舎)があ
 元禄11年藤沢御殿跡絵図
った所である。家康は天正18年(1590)7月、小田原北条氏降伏後、翌8月、江戸に入ると支配の拠点、休憩、宿泊施設として御殿を設置した。藤沢周辺では鎌倉、中原、大磯に御殿があった。
藤沢では当初、遊行寺や渡内村の宿舎に充てられたが、慶長元年(1596)頃に家康が宿泊する直営宿舎として大久保・坂戸両町の北側に家康専用の御殿が建築された。その藤沢御殿は旧藤沢公民館辺り一帯にあった。

その縁を知る形跡は何もないが、公民館と材木屋との間、妙善寺に通ずる通り、通称平野町にある日枝神社辺りに表門があったとされる。御殿は四方、水堀で囲まれ内土塁と外土塁が巡らされ、堀は幅6間、深さ2間半、外土塁の外側は東西106間(192m)、南北62間(112m)で、内土塁の中は東西86間(156m)、南北36間(65m)の広さがあり総面積は6,000坪に及んだ。表御門は東海道に面した南側にあり裏御門が東側にあった。
表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が並んでいた。
御殿には慶長5年(1600)に家康が宿泊したのを始めとし秀忠、家光の寛永11年(1634)の上洛まで28回利用された。

只一枚残る藤沢御殿絵(不鮮明)


参勤交代制の制度化によって幕府の中央集権体制、宿駅制度の整備が進むと将軍直営の御殿は廃止されていった。藤沢宿でも天和2年(1682)藤沢御殿と大久保陣屋は廃止された。藤沢御殿の建物は取り壊され畑地にされ、入札によって名主堀内勘右衛門、名主平野藤左衛門、坂戸の源右衛門らが名請し耕地となり、その後宅地となった。御殿の建物は明暦3年(1657)の大火によって焼失した江戸を復興するために江戸に運ばれ、裏門のみが渡内村の名主左平太〈福原家〉に下賜された。明治11年高座郡役場が御殿跡の一角に建設され、昭和26年に朝日町に移転するまで藤沢市役場として機能してきた。現在、旧藤沢公民館は市民図書室のみが残っているが、本町消防署改築のため一時的に消防署となる情報がある。
御殿の名前が残るのは、現在、御殿橋、御殿辺公園のみである。

参考資料:「わがまちの歩み」児玉幸多 藤沢市文書館、平野雅道 「藤沢史研究」10号