藤沢宿をあるく(番外) |
|||||
湘南高校は創立以来、政官財界や法曹、学術研究、文壇等、近くはノーベル化学賞受賞の根岸英一先生がおられるが、なかでも湘南高校の名、藤沢の名を全国に知らしめたのは、昭和24年(1949)夏の全国高等学校甲子園大会で優勝したときであろう。 この年の夏はまた水泳の古橋広之進が驚異的な世界記録を次々と出し戦後の日本に希望を与えた年でもあった。私は当時14歳であったから二つの出来事はよく覚えている。 当時の記録を調べると、2回戦から湘南9−3徳島城東、準々決勝、湘南2x―1松本市立、準決勝、湘南3x―1高松一(延長10回)、決勝、湘南5−3岐阜。無欲の勝利、創部4年。優勝旗は22年振りに箱根の山を越えたと報じられた。監督は佐々木久男(佐々木信也氏の父)、投手だった田中孝一氏は「全体にカーブの打ち方が下手、カーブが得意だったので恵まれた」と後に語っている。三塁手だった脇村春夫氏(2年、東大、日本高等学校野球連盟前会長、美智子上皇后の従兄)。佐々木信也氏(1年、左翼手、慶大、高橋ユニオンズ、TV解説者)は知的で甘いマスク女性に人気があった。また、のち、西鉄ライオンズで活躍した中西太は優勝候補だった高松一高の選手だった。蛇足ながら私の母校、盛岡一高も奥羽代表として16年振り、6回目の出場を果たしたが、1回戦で平安高校に18−8の大差で敗れている。
優勝時、藤沢の喜びに沸く様子を8月23日の神奈川新聞はつぎのように伝えている。 深紅の大優勝旗、高らかに 湘南高校ナイン晴れの凱旋 初陣で、しかも予想外の全国制覇を遂げた湘南高校ナインは、22日祝賀の花火とどろく午前10時28分藤沢着の列車で帰ってきた、駅頭は小旗とプラカードを持った万余の群衆で埋まり、伊沢藤沢市長、河野代議士、鈴木、栗原両県議、浅井湘南高校長をはじめ関係者等が沸き上がる拍手と万歳の声で出迎えた。関係者の祝賀の挨拶に続いて選手に花束が贈られた後、朝日ニュースカーや同校ブラスバンドを先頭に、チーム一行は街頭を行進、沿道は万余の市民が熱狂して歓呼のどよめきのうちに母校に入ったが、まことに凱旋将軍を迎える如く市内はかってない興奮のるつぼと化し、また午後6時から藤沢市と本社主催の歓迎市民大会が同校で催され、夜は提灯行列で賑わった。(後略) 以後、藤沢市民を熱狂させたニュースはなかろう。今年も夏の甲子園大会の予選が始まろうとしている。文武両道を校是とする湘南高校、激戦区神奈川では甲子園は無理ではあろうが毎年善戦している。奮闘を期待したい。湘高野球部出身のプロ野球選手、東大卒の宮台康平投手は今春ロッテからヤクルトに移籍、奮起一転活躍が期待される。また鎌歩協の清田安孝前会長は二塁手として活躍したと伺ったが、会員中には湘南高校の出身者も多数おられることであろう。 参考資料、HP 「鵠沼を巡る千一夜」鵠沼を語る会 渡辺瞭。 「ニュースは語る20世紀の藤沢」藤沢市教育委員会 「回想の湘南」藤沢市史ブックレット |