藤沢宿をあるく(12)
厄神社と伝染病

 八柳 修之


藤沢橋から京方に向かって左側を歩き旧石曽根履物店の横から奥に入る宿の裏道、通称、緑の散歩道と呼ばれる小径がある。径なりに進めば本町郵便局に出るが、上り際に小さな神社、厄神社がある。

明治15〜16年、藤沢宿で天然痘が大流行したとき宿の人々によって明治17年、川崎大師から分神、祭神は厄神鬼王(疫病除けの神)、神殿は小さいが地域の人々によってよく清掃されている。

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明治10年(1877)の藤沢宿の人口は6,241人、家数は1,249軒だった。江戸時代以来、急性・伝染病が頻発・流行し多数の生命が奪われ、伝染病の蔓延は深刻な影響を及ぼした。明治初年には天然痘(ほうそう)が大流行し、赤痢は明治10年代から西日本に発生した後、26,27年頃に全国に広がり慢性風土病となった。なかでもコレラはコロリとも呼ばれ、もとはインド・ベンガル地帯の一風土病であったが、開国を契機にもたらされ、明治12,19年の死亡者は全国で10万人を超えた。その数は日清・日露両戦争の戦病死者を上回る数であった。コレラは日清戦争の帰還兵からもたらされ軍内部に拡がった後、さらに炭坑や工場労働者などに拡大し、明治政府の富国強兵策が崩壊する危機でもあった。「神奈川県衛生誌」(昭和3年)によると、全国と神奈川県におけるコレラ患者数(死者)は、明治12年、全国の患者数は162,637人(死者105,786人)、神奈川県、患者数2,120人(死者1,493人)。明治19年、全国155,923人(死者108,405人)、神奈川県5,899人(死者4,179人)もあった。

それに加えて腸チフス、ジフテリアが流行り明治32年は海外からペストも侵入した。これ以外にも梅毒、結核やハンセン病などが加わり緊急に対策を迫られる社会問題となった。空気感染による天然痘、結核は薬品の開発。コレラ、赤痢、疫痢(6才以下の赤痢)、腸チフスの水系伝染病は衛生管理、とりわけ井戸から水道、下水道の整備、普及が急務であった。大正4年、藤沢町の井戸数は2,500箇所、しかも旧藤沢宿地区の水質は不良であった。大正15年、鵠沼の高瀬弥一が江ノ島水道会社を設立したが、敷地内の水をくみ上げ主に江ノ島に供給するものであったが、昭和3年湘南水道会社と改称し、昭和5年には給水戸数1,029戸に達した。しかし、昭和6年当時の藤沢町の戸数は約5,000戸もあり、多数の住民は依然として飲料水を井戸水に頼っていた。

下水道の整備に至っては戦後、30年代になってからで、バキュームカーが各所で見られた。一方、大正7年〜9年にかけて、全世界的に大流行したスペイン風邪は、全世界で5憶人が感染したとされ、全世界人口(18〜19億人)の27%が感染、死亡者は1億人を超えたとされる。日本では大正7年、第1波〜3波とよばれるスペイン風邪が流行、その数は388,727人に達した。藤沢市の感染者数の統計は見つけられなかった。これらに対応できる医師は大正14年(1925)、藤沢町22名であった。昭和2年8月にやっと元蚕業試験地跡に伝染病も受け入れる町立藤沢病院が設立された。私の中学時代、保健体育では11種類の伝染病を習ったが、伝染病予防法は1998年に廃止され、現在は家畜伝染病予防法のみが定められている。それにしてもコロナ禍はいつ終息できるのであろうか。

参考文献 :「藤沢市史」、「神奈川県衛生誌」、
       「藤沢医史」・藤沢市医師会、
       「現在の藤沢」・加藤徳右衛門