江尻さん   1964年東京オリンピックと競技人生を語る

八柳 修之
江尻忠正さん、FWA二代目会長、現顧問。
1964年東京オリンピック50km競歩代表、日本競歩の草分け、レジェンドとも言われWikipediaにも掲載されている人です。以下、江尻さんが語る1964年東京オリンピックと競技人生です。

今回オリンピック、競歩では20kmで池田選手が銀メダル、山西選手が銅メダル、50kmでは川野選手が3時間51分56秒で6位に入賞しました。
この記録は私が1964年オリンピックで出した日本人最高4時間37分31秒を45分35秒も短縮する記録でした。この57年間、日本競歩界の進歩には感慨深いものがあります。思い起こせば1964年10月18日、前夜からの雨が降り続く中、国立競技場―甲州街道府中を折り返しとするコースをゴールに向けてひたすら自分のこれまでの練習の積み重ねを信じて歩くのみでした。

私は富山県高岡の出身です。子供の頃は下駄で通学、中学、高校と体一つでできる陸上競技、800m、1500mの選手でした。競歩に転向したのは、地元日本ゼオンに入社してからです。通常勤務の傍ら、朝は4時に起きて朝練、通勤、就業時間後の夜の練習で約80kmもの距離を歩きトレーニングに励みました。
80kmといえば長いようですが、朝、工場開始時間まで40kmは歩いているんです。勿論、コーチ,トレーナーなどいませんでした。就業時間は一般の社員と同じ、恩典などはありませんでしたが、会社が古河系(サッカー、アイスホッケー部が有名)で幹部が私の競歩に理解があり、全国勤労者陸上競技大会出場や、日本代表として二度もドイツ、スイス遠征を許可、支援してくれ本場の競歩を学んだことは大きかったです。オリンピックではマラソンの円谷幸吉選手がエチオピアのアベベ選手と争って、銅メダルという快挙でしたが、国を背負っている重圧からか自死してしまったのはまことに残念お気の毒でした。

競技生活では同じ富山県出身の寺沢徹(マラソン)三栗崇(体操)と共に県の支援をいただき感謝しています。50km競歩は今回を最後に2022年から30kmと10kmになるそうです。50kmは厳しく一般的でなく廃止に賛成です。30才、オリンピックを契機に現役を退き定年まで勤め、その後、ウォーキングの普及・推進にあたったつもりです。

良く聞かれることですが、正しい歩き方なんてありません。その人にとって最もよい歩き方、楽しい歩き方を見つけることと思います。競技者は競技が終われば只の人です。現在は歩き過ぎがたたってマッサージに通っています。コロナ禍が過ぎ、どこかで皆さんとお会い出来ればいいなぁと思っています。
(文責:八柳修之)