藤沢宿をあるく(13)
藤沢駅と新村岡駅

 八柳 修之


明治20年7月1日(1887)、この日は藤沢の近代史上、エポックメーキングな日、鉄道開通の記念すべき日であった。これまで歩いて行くか,人力車に乗るかしかないのに鉄道が敷かれたのである。明治5年(1872)新橋〜横浜間に鉄道が開通してから15年後であった。開設当時の藤沢は半農半漁の宿場町であり、藤沢駅の開設は藤沢とその周辺地域に大きな変化をもたらした。明治政府は旧東海道に沿った宿場ごとに停車場を設置する方針であったようで、藤沢駅の位置も戸塚駅より最短で直進し、白旗神社付近に設置する予定であった。ところが、宿場町として発展してきた藤沢宿は歓楽の中心地でもあった。駅の予定地が発表されると、賛否両論が対立し、汽車が便利なことは認めながらも宿場が寂れることを惧れる旧勢力の人々に押し切られ結局、機関車の煤煙による火災の危険を理由に桃畑と松林であった現在の位置に開設された。また、横須賀線は明治22年(1889)に開通されたが、当初は藤沢駅から分岐する計画であったが、これも地元民の反対によって大船信号所を駅に昇格させ東海道線に接続した。藤沢が湘南の中核都市となる機会を逸したのである。
 

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関東大震災後復興された藤沢駅

駅周辺には三業地(料理屋、待合、芸者屋)ができ、宿場は廃れていった。藤沢―横浜間1時間、藤沢―新橋間2時間、明治21年、藤沢駅の乗降者数は204,035人(一日559人)であった。ついで、江ノ電は明治35年9月(1902)に藤沢〜片瀬間に開通したが、本格的発展したのは大正12年(1923)の関東大震災後、東京方面から郊外への転住が始まってからのことであった。明治45年(1912)になると藤沢駅の乗降者数は616,850人(1日1700名)、となり、貨物の発着状況は発送量18,072t(主なものは甘薯6,164t、麦4,481t)、到着量40,154t(主なもの肥料14,551t、石炭2,275t)、で、発送量に比べて到着量は2.2倍強であった。藤沢町には関次商店ほか有力な米穀肥料商が存在していたからである。その後、予定地の白旗神社付近には鉄製のスタンドもある藤沢競馬場が建設され、関東大震災後もあったが昭和5年廃止された。原因は明らかでないが赤字だったようだ。2019年、JR藤沢駅の乗降者数は一日平均108,873人、小田急165,663人、江ノ電22,968人、三社合計一日平均297,504人、この数字は藤沢市人口43万人の68%の人が藤沢3駅を利用している計算になる。


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村岡新駅(仮称) 完成予想図


お話かわって村岡新駅の話。本年2月8日、神奈川県は藤沢市、鎌倉市、JR東日本との間で、元JR貨物駅跡地に新駅、仮称村岡新駅を設置することに合意したと発表した。日経によると新駅は藤沢駅から約2km、2分、大船駅から2.6km地点、ミズノフットサル、ツタヤ付近に建設、事業費は150億円、(県30%、両市各27.5%、JR東日本15%)、2032年開業を目指しているという。柏尾川には橋が架けられ、鎌倉車両センター(2006年廃止)跡地約31haに再開発中の深沢地区と回廊で結ばれるという。新駅は鎌倉市にとってメリットが大きいと思われるが、この深沢地区に市役所を移転させる方針について旧市内の人の一部が強く反対しているという。
(出典:「藤沢市史」、2月8日発表神奈川県プレスリリース、同日経新聞記事)