藤沢宿をあるく(14) |
||||||
11月は藤沢市の火災予防月間である。11月に入ると木枯らし、南西の風が吹き時には風速10mもの風が吹く。藤沢宿は宿内を壊滅状態にした大火事が明治12年〜19年にかけて3件もあった。現存する一番古い建築物は明治30年に建てられた鎌田商店の石蔵である。 鎌田商店石蔵
明治13年(1880)11月26日、西風の烈風、東坂戸町大川喜右衛門宅物置から出火、火の手は陣屋小路、榮町、仲久保、旅篭町、西富町、大鋸町を総なめして柄沢集落まで飛び火した。焼失家屋は400戸に達し、藤沢火災史上最大の大火事。焼失した建物は藤沢郵便局、藤沢役場、感応院、遊行寺等が焼失した。藤沢宿希代の大火で大川火事と言われた。 明治19年(1886)11月、東坂戸、中屋長兵衛方裏手より出火、折しも西の烈風吹き荒れる真夜中、北側は釜屋の横丁、南側は豊島屋まで、西は近江屋まで、焼失家屋は約100戸に達した。俗に中長火事と呼ばれた。 明治20年(1887)7月、藤沢宿の中心街から1q離れた所に藤沢駅が開設された。当時は梨畑で閑散としていた。大川の火事を契機に藤沢宿にあった旅篭屋は割烹旅館と遊郭に分離され、遊郭は土手に囲まれた新地と呼ばれる一か所に集められた。遊郭は表向き10軒、芸妓屋は14軒もあった。花柳病が蔓延し、明治10年、花柳のための病院、県立病院が某所に設置された。遊郭、特殊飲食店は昭和32年(1957)売春禁止法の施行まで続いた。新地の存在は、旧藤沢宿と駅との間を遮断し、その後、北口方面開発のネックとなった。近年、南口方面は大型マンションの建設が相次ぎ人口が増加している。 一方、旧藤沢宿は三大火災後も街の区画は間口が狭く奥行が長い地形がそのまま温存され家が建てられた。火災に強い店蔵が建てられるようになったのは明治中期以降である。旧鎌田商店の石蔵は明治30年(1897)の建造、構造は木造の骨組みに石壁を回した木骨石造で石材は鎌倉や片瀬山で産出した鎌倉石である。また明治6年(1973)創業の米穀肥料商の関次商店の肥料蔵は鎌倉石を使用した木骨石造りである。藤沢宿のシンボルともいうべき桔梗屋の店蔵は明治44年に建築されたもので土蔵造り、外壁は黒漆喰仕上げである。 参考文献:加藤徳衛門「藤沢市史」、 児玉幸多「藤沢、わがまちのあゆみ」、Wikipedia |