藤沢宿をあるく(15) |
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旅籠屋の数は、享和3年(1803)49軒、天保初年(1830年頃)には51軒あった。享和3年当時の49軒の旅籠屋の規模は、畳数20〜30畳程度のものが30軒で全体の約60%を占め、多くは小規模なもので、玄関や床の間はなく、部屋の仕切りは障子か襖で部屋数は3〜4室程度、相宿であった。因みに、後述の旅籠屋「小松屋源蔵」は、総畳数21畳、総坪数11坪であった。旅籠屋には飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠があった。 飯盛女とは給仕する女であるが、実際は売春を前提に旅籠屋に抱えられた女達であった。幕府は公認の遊郭以外の場所に遊女を置くことを原則禁止していたが、飯盛女は遊女とは区別され黙認されていた。幕府は2人以上の飯盛女を置くことを禁じたが、それは表向きの事で女中見習いとか名目をつけ、それ以上の飯盛女がいたとされる。藤沢宿には最盛期、100人以上の飯盛女がいたとされる。維新の頃まで藤沢宿の旅籠屋であった小松屋の墓が、坂戸の永勝寺にある。済美館から西へ約40mほどJAさがみの角から50mほど進むと左側に永勝寺がある。正式には法名山祥瑞院永勝寺、浄土真宗(一向宗)、開山真海上人、創立は元禄4年(1691)である。 山門の右手に石の案内板があり、こう書かれている。「墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。三十九基の墓石には四十八の法名が刻まれていて五基は男です。飯盛女のいる旅籠は繁盛しました。藤沢宿には旅籠屋が49軒あり、このうち飯盛女がいたのは27軒ありました。一軒に二人ずつ置かれました。飯盛女は近くの農村や他国からも両親の借金の代償としてなかば売られて藤沢に来たのです。旅人の世話や食事の給仕だけでなく男たちの相手にもなりました。飯盛女として悲しい一生を終えたのです」とある。小松屋の出身地が伊豆国小松であったことから、飯盛女の出身地は伊豆国が最も多い。墓石は伊豆の小松石、風化して殆どは判読不能となっている。教育委員会の案内板にも同じような案内があるが、「このように供養された者は少なく、供養の形など苦界の中で身を沈めた者が多い中、小松屋の温情が偲ばれる」とある。小松屋以外に多くの旅籠屋があり飯盛女がいた筈だが、他の旅籠は飯盛女をどう葬ったのであろうか。 参考:「藤沢わがまちの歩み」小玉幸多編 藤沢文書館 |