藤沢宿をあるく(17) |
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続いて明治35年(1902)頃、西部の広瀬藤右門を頭取とし羽鳥の三觜八郎右衛門、鵠沼の斎藤正五郎らが相模共栄銀行を設立し、藤沢銀行と対峙した。藤沢銀行の首脳が改進党系であったのに対し相模共栄は自由党系であったこともあった。明治40年(1907)頃の恐慌を機に中小銀行合同の機運が全国的に強まり、両行のほかに浦賀銀行が合併し明治43年(1910)資本金150万円の関東銀行が設立された。横須賀、浦賀、三崎、腰越、大磯、小田原に支店を設け地区の商工業者や農家を取引先として発展していった。一方、横浜の有力な生糸貿易商若尾幾造は明治26年(1893)、製糸金融部門を独立させて横浜若尾銀行を設立し、製糸工場のある若尾山(現市役所のある所)に支店を設立した。また明治43年(1910)12月、沼津町に本店を置く駿東実業銀行頭取岡野喜太郎は藤沢に着目し、支店を中久保に開業、関東銀行から脱退した経営陣が加わり関東銀行と対立した。預金が貸出を上回る堅実な経営で大正元年には駿河銀行と改称した。
大正12年(1923)関東大震災直後、神奈川県農工銀行(日本勧業銀行の前身)が領家に出張所を開設、昭和5年大鋸遊行寺下の火除け地に支店を開設し、その建物の偉容は藤沢町の自慢であった。農工銀行の建物は終戦後、労働基準監督署が一時使用したが、取り壊され更地となり日本三大広小路の一つ藤沢広小路と称したが、平成28年4月藤沢宿交流館が建設された。これより前、関東銀行は大正9年(1920)、戦後恐慌で取りつけ騒ぎがあったが、横浜正金銀行や神奈川県農工銀行の支援によって危機を切り抜け、一応順調な経営を続けていると見られていたが実際は放漫経営であった。
そこへ関東大震災による甚大な打撃を受け廃業、整理銀行として横浜の興信銀行を親銀行として、大正14年(1925)、関東興信銀行が開業したが、最後は横浜興信銀行(前身は明治2年(1869)設立の横浜為替会社)の支店となり、藤沢に本店を置く銀行はなくなった。明治20年(1887)東海道線が開通により人口の増加はあったものの、藤沢の商工業は沈滞ぎみで次第に横浜の経済圏内に組み込まれていき地場銀行は消滅していった。 参考資料:「藤沢 わがまちのあゆみ」小玉孝太 藤沢市文書館、 「藤沢郷土史」加藤徳右衛門 名著出版 HP:横浜銀行 |