藤沢宿をあるく(18)
消えた世界に羽ばたいた梶荘

 八柳 修之


旧旅篭町にあった梶荘本店



 写真は藤沢宿、旅篭町にあった梶荘本店。桔梗屋同様残して欲しかった建物である。藤沢は宿場町、昭和になってからも工業は製糸業以外、10人以上の労働者を雇用する工場は見られなかった。昭和6年(1931)、藤沢町の工場は辻堂に同年建設された蚕糸興業(株)従業員200名を別格とすれば、大和醸造(32名)、三光堂(26名)、藤沢印刷(22名)、そして、梶荘右衛門が経営する麻漁網を製造した梶荘麻糸工場の本店であった。梶家は元治元年(1864)のころから麻網製造に手を染め、漁網が藁網から麻網に転換するにともなって業容を拡大した。当初は問屋制家内工業によって製造していたが、明治39年(1906)に藤沢に第一工場を設置したのち、県中郡に第二、第三工場を相次いで設立した。

 しかし、日露戦争後諸物価の高騰、県内では従業員のなり手が少なくなり、県外に工場を探し求めた。その結果、大正5年(1916)、愛知県蒲郡市形原町(三河湾に面し形原漁港がある)に支店・工場を設置した。この頃から、藤沢の梶荘は本店・営業の機能だけとなったようだ。当初、従業員は200名程度であったが、漁網製造は編み機さえあれば一般家庭の副業ともなったので豊橋、岡崎など周辺地域までに及び従事者は一時2,000名以上にも達した。

 大正12年(1923)、荘右衛門死後、事業は二代目に継承された。当時の製品は漁網、網糸、流し網、ロープ類であった。販路は国内はもとより、ロシア、朝鮮、台湾、南洋諸島、アメリカまで輸出していた。しかし、戦後、漁網業界は天然繊維から合成繊維へ、漁法、漁船の規模による網の材質・用途の多様化、技術開発が求められた。一方、水産資源の減少、需要の減少に伴い、製網業界は農業用ネット、スポーツネット、防風、防鳥網、安全ネット等など用途の多様化による経営が求められた。

 昭和42年(1967)、漁網生産者団体、「日本製網工業組合」が設立され、現在、会員数は55社を数えるが、その中に梶荘の名前は見られない。蛇足ながら、梶家は遊行寺と深い因縁があり、遊行四十代樹端上人(1660〜1683年)は梶家の出で、明治13年11月(1880)、藤沢の三大大火事の一つ、大川の大火事で遊行寺本堂が焼失した際には本堂再建に当たって尽力した。

参考文献・資料 「藤沢市史」 別編2 藤沢市、 「わがまちの歩み」児玉幸多編 藤沢文書館、
「藤沢郷土史」 加藤徳右衛門 図書刊行会  梶荘広告、 日本漁網工業会 HP