藤沢宿をあるく(19) |
||||
これより先、1941年(昭和16)12月8日、真珠湾奇襲に始まった戦争はその後次第に敗退を重ね軍事施設の建設は急務であった。藤沢でも海軍航空隊関連の施設が造られた。司令部は旧ゴルフ場のクラブハウス(通称グリーンハウス)を使用、地下壕が掘られ、また長さ1050m、幅25m、厚さ6pの滑走路が建設された。 藤沢海軍航空隊の1期生は約400名、15歳〜19歳の志願兵、いわゆる「予科練」で、パイロットを育成することにあったが、すでに戦局悪化の状態で練習機は2機しかなく、加えて燃料不足であったため、飛行訓練は殆ど行われず、わずか6ヶ月の訓練で実践部隊に配属されていった。基地としての機能も貧弱で終戦直前の7月30日には米軍の攻撃を受けたという。8月15日終戦。 29日には米軍が厚木飛行場へ進駐し9月1日厚木から藤沢航空隊跡地に連隊本部を置き550名の隊員を駐屯させた。しかし駐屯価値がないとみたのか1年で撤退、跡地は大蔵省に返還され、1952年(昭和27)滑走路部分は東洋航空工業に払い下げられた。同社はここに飛行機工場を造り、アメリカ企業から部品の提供を受け飛行機の製造を行い、また飛行場は翌28年3月供用開始し遊覧飛行を行った。 1959年(昭和34)9月24日、藤沢飛行場にCIA(米国中央情報局)の黒色のロッキードU―2偵察機が不時着、日本の警察の検証は排除されたという事件があった。この事件は神奈川新聞には小さく報じられたが、三大紙には全く報じられずほとんどの市民は知らなかったが、同年12月、国会で日本社会党委員長の飛鳥田一雄(前横浜市長)により採り上げられ偵察飛行と飛行場の存在が全国的に知られるところとなった。飛鳥田は米軍の不時着事件をめぐる処理について米軍に治外法権が許されたのは問題であると指摘した。 航空機は結局6機製造され東南アジアにも輸出されたが、業績不振で、飛行場は早大ほか大学のグライダー部の練習場ともなっていたが、1964年(昭和39)供用を停止、会社も昭和44年解散、その翌年、荏原製作所藤沢工場の所有となった。また一部は不動産業者が取得しオーシャンヒルズと命名し宅地分譲したが、国土地理院地図にはその名はない。 参考文献:「回想の湘南」昭和史50選 藤澤市ブックレット、藤沢文書館。 「グリーンハウス物語」善行雑学大学。 Wikipedia |