藤沢宿をあるく(20)
 藤沢カントリー俱楽部

 八柳 修之

藤沢宿の枝郷であった善行寺村、立石村。地主は藤沢宿の名主伊賀屋、牧野屋(平野家、平野武宏氏ご実家)、明治初期戸数は僅か30軒程度、いずれも養蚕専業農家であった。昭和初期、藤沢の関東銀行が破綻、担保にとった現在の善行7丁目県立体育センターなどがある辺りからみその台の聖園女学院辺りまでの一帯の土地20万坪を横浜の関東興信銀行がその処分にあたった。昭和5年(1930)、横浜財界グループが、この土地を12万円で買収し藤沢ゴルフ(株)を設立した。この土地一帯は富士山、相模湾、江ノ島を望めゴルフコースには好適地であった。18ホール、パー73、倶楽部ハウスの設計アンソニー・レーモンド、地下1階、地上3階建鉄筋コンクリート延416坪、総工費7万円。かくして藤沢カントリー倶楽部ゴルフ場は昭和7年(1932)6月3日完成オープンした。これとは別に現在の国道467号線の東側にレデイーズコース9ホールが建設されたが、詳しい資料は残っていない。


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加藤徳右衛門はその著「藤沢郷土史」の中で、「高額な入会金一口1,000円(当時、かけそば一杯5銭)、富豪階級500有余の集団娯楽場でありその豪奢振りは下級民衆に思想上悪影響を与えると指摘、また尋常小学校5年以上の子供を従者(キャディ)として使うのは問題である」とした。これに対し、会長井坂孝は「使用する児童は単なる労働にあらず、常に人格者に接するため自然に教訓を体得できるので、一般家庭はより進んでその子弟をこの倶楽部に送って頂きたいのである云々」と挨拶した。学業をさておき、キャディになることを勧めているのは驚きである。

ともあれスタートした藤沢カントリー倶楽部は1933年日本プロゴルフ選手権、1934年にはベーブルースがプレイ、1938年には日本オープンが開催された。
また、藤沢駅からは倶楽部馬車が出ていた。戦時色が強まるにつれ昭和18年(1943)、土地と倶楽部ハウスは海軍に接収され海軍予科練の訓練場となった。

昭和20年(1945)9月、連合軍550人が進駐したが1年で撤退、跡地は大蔵省の管理下となり跡地を巡って獲得活動が始まった。現在の善行公民館がある辺りに戦災孤児の養護施設、唐池学園。引揚者家族・母子保護施設の平野母子寮が旧海軍の施設を利用して建設された。また倶楽部ハウスの南側は「聖心愛子会」(あいしかい、大正9年、本部秋田市)、社会事業団体、現在聖心(みこころ)の布教姉妹会が72,000坪の土地を取得した。現在、聖園女学院中学・高校が置かれている。倶楽部ハウスの南側は遊行寺傘下の藤嶺学園が取得し、系列の藤沢商業を移転、のち藤沢翔陵高校と改名した。

昭和23年(1948)4月、藤沢市は北側ゴルフ場跡地(伊賀屋分、グリーンハウスを含む)を取得し、県下髄一の一周400mの公認陸上競技場が建設された。
昭和30年(1955)10月、県営総合運動場となり第10回神奈川の国体ではサッカー、バレーの会場となった。昭和39年10月には県立教育センターが開設された。
グリーンハウスは改修され,2021年2月26日、国登録有形文化材に登録された。現在、一般非公開。
出典:「グリーンハウス物語」、善行雑学大学
    「藤沢郷土史」加藤徳右衛門 Wikipedia