藤沢宿をあるく(21)
藤沢宿から藤沢町、藤沢市へ

 八柳 修之

 明治4年(1871)の廃藩置県によって藤沢宿は韮山県管轄下から神奈川県へ移管され、藤沢宿は境川をもって分割された。坂戸町と大久保町は高座郡藤沢宿に、大鋸町と西富は鎌倉郡に所属することとなった。明治15年(1882)藤沢宿は藤沢駅と改称。明治20年(1887)横浜・国府津間に東海道線が開通し藤沢駅(ステーション)が宿から離れた梨畑であった現在の場所に開設された。

 明治21年市町村制が施行され、藤沢地域は坂戸町と大久保町は高座郡藤沢大坂町に、大鋸町と西富は鎌倉郡藤沢大富町に名称が変更された。このほか、川口村(片瀬)、村岡村、明治村、六会村、渋谷村、御所見村、小出村が誕生した。明治35年(1907)には江之島電気鉄道が藤沢~片瀬間に開通した。明治40年(1907)藤沢大富町は鎌倉郡から分離し高座郡藤沢大坂町に編入された。翌41年(1908)4月、藤沢大坂町と鵠沼村、明治村の三町村が合併して藤沢町となり町役場が藤沢御殿跡(陣屋小路)に建設された。藤沢町の成立はこの時期、この地域が一つの新しい生活圏として形成され始めたことである。それは東海道線と江ノ電の開通によって旧藤澤宿の商業的・経済的地位が相対的に低下したことである。商業地区は藤沢宿から藤沢駅周辺に移動しはじめ、鵠沼地区は別荘地区として開発され、他の地域は藤沢町の製糸工場等をバックアップする農業養蚕地域へと変質させていった。その後、藤沢町が市政施行について積極的に動いたのは、昭和13年(1938)頃からである。藤沢町は隣接の片瀬町、村岡村に交渉し、ほぼ合意に至っていたが、新市名の名称をめぐって片瀬側は江之島市、片瀬市を強く主張し、藤沢側は藤沢市を第一案とするも、藤沢江の島市、湘南市まで譲歩する姿勢を見せたがまとまらず、片瀬町抜きで昭和15年(1940)10月1日、藤沢市がスタートした。当時の戸数は6,357戸、人口は32,179人(一世帯当たり5人)であった。その後、翌16年6月、村岡村が編入、17年3月には六会村が編入した。片瀬町が藤沢市に編入したのは昭和22年(1947)になってからのことであった。

 市庁舎が落成したのは昭和26年(1951)。昨年10月には市制施行82年を向かえた。

 2010年の市政施行70年には記念事業の一つとして、「市民が選ぶ藤沢13地区の景観130景」の選定が行われFWAも選考委員として参加。記念切手も発行された。FWAは130景を歩くウォークを2012年5月から実施、その後70景を追加し、2016年12月終了、この間、延べ6,109名の参加があった。
 



 藤沢市の人口は2022年10月現在443,451人、82年間で14倍に増加、近年暮らしやすい町として増加し続けている。一方高齢化も進み65才以上の人は108,290人(高齢化率24.42%)、高齢者の多い地区は湘南大庭32.94%、善行27.44%といずれもニュータウン開発により移住した地域で、昔から農村地区の御所見は流入者が少ないが29.29%となっている。

 最後に私見ですが、藤沢公民館跡地には本町の消防署が移転・建築される由ですが、消防署跡はかって湘南の三越と言われた稲元屋呉服店の取り壊した資材が保管されていると聞くので改修・復元し藤沢宿関係の資料を集めた資料館とすることを提案します。藤沢宿が少しでも活性化されることを願い、ひとまず藤沢宿シリーズを終了します。
 
参考資料:高野修 講演会資料:近代藤沢市における合併史。「藤沢の歴史」藤沢文庫刊行会藤沢市HPなど