俣野別邸設計者 佐藤秀三について

  小島 則之

   昨年12月のウォークで訪れた「俣野別邸」。その設計者 佐藤秀三について、何事かを書いてほしいと編集部から求められたので、思いつくままに書きます。

 私が何も分からず初めて麹町の設計会社に入所し、そこで事務所の諸先輩からはじめて佐藤秀三の設計に対する思想や信条を講義され、その生き様にわけも分からず魅了され、以後私の設計思想の底流にはこの人の想いが刷り込まれているようで、どこか理解できる部分があって好きなのです。

 佐藤秀三(1897?1978)は秋田県の出身、1908年山形県米沢市に移住し、山形県工業学校(現県立米沢工業高校)建築科に進み1914年同校を卒業。17歳で設計者を志し大阪の住友本店営繕課に入社しました。上司に後の日建設計創設者で、優れた設計者の長谷部鋭吉や、工事現場で同僚となりデザインセンスの影響を受けた早大卒の笹川慎一らと出会い、設計者としての一生の方向性がここで確定したようです。その後1921年25歳で住友本店を退職し、設計会社や施工会社勤務を経て1929年32歳で佐藤秀三建築工務所(現・轄イ藤秀)を創業しました。

 佐藤秀三建築工務所はもともと住友との強固な繋がりがある上に、彼の設計理念に共感した国土計画の堤康次郎や、政官財界、文画壇著名人、有名企業等に顧客層が広がって、着々とその礎を築いていきました。代表作を略記すると、40歳代には「住友那須別邸」、「志賀アルペンロ−ゼ」、「住友俣野別邸」(2004年に国の重要文化財に指定)等を手がけ、その後も住友家ご当主とは親密な交友関係を得て、その関係の建物や、恩師の支援で日立製作所関連の仕事を手がけています。50歳代には(株)佐藤秀工務店に改組し社長に就任。社長就任後も「大阪住友海上荻窪住宅」を受注、さらに大阪住友海上の社宅や営業所等を受注し、公私共々絶大な支援を受けました。その後も各界の著名人らとの交友関係から、志賀高原の建物や、(株)丸井の青井社長の信頼を受けて丸井の多くの店舗・住宅や、堤康次郎の信頼を得て全国にプリンスホテル系のホテルやクラブハウスの設計を手がけました。70歳代では「三木武夫邸」、79歳で秀三晩年の力作「日光プリンスホテル」等、強力なクライアントに恵まれ、数多くの作品を残しています。74歳で社長を退任し、会長・相談役を経て、1978年81歳でその生涯を閉じました。

俣野別邸(俣野別邸庭園HPより転載)

 64年間に及ぶ彼の建築家としての業績は、あまり知られていません。生前何度か企画された作品集の出版も実現せず、秀三が手がけたある大手出版社の社長邸が完成した時も、同社から作品集出版の企画が打診され、それを取り次いだ御子息に「お前は何を考えているのだ!住宅は住む方の為に作るものであって、自分の作品として披露する為に作るものではない!」と大変な剣幕で叱責したというエピソ−ドがあり、秀三の「建物を造る時は建てる方の気持ちになって」という確固たる理念と顧客への影日向のない真心をよく表しています。この辺りが私の惹かれた由縁で、時代は移っても今の建築界では考えられない仕事観です。思うに自分に対して“ある意味”不器用な生き方をした人だったのではないでしょうか。

 では佐藤秀三とはどのような理念を持った人だったのでしょうか。建築家が前面に出る事を断固として嫌った人で、かけがえのない師との出会いを大切にし、短気な佐藤君には絵の勉強が一番と長谷部鋭吉に勧められたり、建築に対する矛盾を解決すべく、設計・施工を一貫して納得がいくまでやり直す。豪快さと細部へのこだわり。骨格は骨太でも精神は数寄屋と、幼少期の影響か木材への強いこだわりと和洋のセンスを自在に融合。趣味の山と絵画が生んだ親交を重んじ、和洋と近代建築の融合、妥協を許さない品質追求の姿勢等を生涯テーマとし、山を愛し絵画を趣味とした崇高な建築家だったようです。