惜別

    江尻 忠正さんを偲んで


谷村 彪

 2024年1月3日、江尻忠正さん(元湘南ふじさわウオーキング協会会長・元神奈川県ウオーキング協会会長)が亡くなられた。享年89歳。
 江尻 忠正さん

 当協会(以下FWA)の歴史を振り返る時、特に創成期、発展期を語る際に江尻さんの名前は欠かすことが出来ない。

 1995年秋、藤沢市のウォ−キング愛好者7名で運営されていた任意団体「藤沢市歩け歩け協会」はウォ−キングをより普及させるために広報「ふじさわ」でボランティアスタッフの募集をしていた。そこに応募したのが7名(男子5名・女子2名)でその中に江尻さんと私も参加していた。以来30年ほどのお付き合いとなった。初めての仕事は1995年9月24日(日)。雨後晴天のその日は8時に鎌倉駅西口の時計台広場に集合、コースは天園ハイキングコースであった。初仕事の後の雑談で、江尻さんが東京オリンピック日本代表選手であることを知る。

 江尻さんは1964年東京オリンピックの50km競歩日本代表選手で、日本代表3人のうち最高位の22位でゴールした。タイムは4時間37分31秒(11q/時速)。代表までの道のりは想像を絶するもので、当時勤務していた富山県には専門的な知識を持つ指導者は居らず、独学でただひたすら歩くのみ。朝4時起床38km歩き、8時から4時の勤務時間後30〜40kmの練習を終え帰宅したそうである。オリンピック出場時は30歳。血と汗の混じった凄まじい陸上競技人生であったと思う。

 そういう江尻さんがウォ−キングボランティアに応募したきっかけは何だったろうか・・・。当時の彼はこう言った。「競歩は通常のウォ−クの延長線上にあり別物ではない。タイムを争うのが競歩で、争わなければ通常のウォ−クと何ら変わらない。もちろん歩き方は異なるが、歩く時の「リズム」「バランス」「パワ−」の三要素は共通している。自分のペースで怪我無く、楽しく歩くのがウォ−キングではなかろうか・・・。自分は歩くことによる手軽な健康づくりのお手伝いをしたい。」と。

 1995年秋、7人のスタッフに活動的なスタッフ7人が加わった「歩け歩け協会」、特に江尻さんのような“歩きのプロ”が参加してくれたことは力となった。

 その後、有能なスタッフも加わり1997年には会員制による協会として新発足、2000年6月2代目会長に就任後、10月には協会の名称を「湘南ふじさわウオーキング協会」とし、新たなる発想でウォ−キング活動を展開していくことになる。

 2001年には「ふじさわウォ−ク2001」の後援、2002年第1回ゆっくりウォ−ク「江ノ島の椿」、2003年には「湘南の海風・川風ウォ−ク」(今の「ぐるっと湘南」)を開催し、全て今日まで続いている看板ウォ−クを立ち上げたのである。また2003年4月には「だれでもいつでも気軽にウォ−ク」を旗印にアイランド、リバ−サイドコースのイヤ−ラウンド2コースをオープンしウォ−キングの普及に努めた。 2004年3月に実施された当協会初の女性スタッフのみによるレディースウォ−ク「ひな祭り」(山本公園〜鎌倉国宝館 12km)は江尻さん無くしては考えられない企画であった。

 2004年、請われて神奈川県ウォ−キング協会長に就任するが、多忙の中FWA例会にも顔を出しウォ−キングによる健康づくりに力を注いでいた。例会参加時はウォ−キングマナ−・エチケットなどにもうるさく、口癖は「地図は常にポケットから出しておくこと」(地図を見ながら歩け)であった。当時、団体歩行の多かった時はなかなか実行されなかったが、現在のように自由歩行が多くなると、その有難味が身に染みてわかる。

   

 江尻さんには2005年2月に発足したウォ−クメイトで昼食後に開かれた“ウォ−キング教室”を担当していただいた。独自の資料を基に、実技を交えたウォ−キング講座は好評で、今でも懐かしむ人が居る。競歩(腰を横にひねり身体をくねらせながら歩く、通称モンロ−ウォ−ク)と通常ウォ−クの違いなどをユーモアを交えながら判り易く話してくれた。

 協会を離れてからは有志での懇親が中心となったが、飲むにつれ、酔うにつれウォ−キングの話が多くなる。江尻さんはウォ−キング全般、FWAの現状、将来などについて口から泡が出るほどの勢いで畳み掛けてくる熱血漢であった。新型コロナでお会いする機会が減り、最近お会いした時には難聴が進んで、こちらからの伝達は困難であったが、江尻さんは年を感じさせず、ご自分の意思を貫いておられる姿が印象的であった。

  “ 悠久歩人 江尻忠正さん 天国で ご自分のペースで
              ゆっくり 歩きまわってください ”