紀行

ベトナムを歩く(3)

ハノイ・ホーチミン廟とタンロン遺跡

 平成26年9月5日 池内淑皓

 今日はベトナム全国民が敬愛してやまない「ホー叔父さん」に会いに行く、ホーチミンの遺体を見学できるのは午前中だけであるから(月、金休み/入場無料)、朝一番でタクシーを飛ばして廟に行く。8時半に到着したら、入口にはもう100mもの行列が出来ていた。
 X線で厳重な検査を受けてホーチミン廟に向かう。1975年9月総大理石で造られた廟の中に、内臓を抜かれた遺体が凍結保存されて、ガラスケースの中に納まっている。参拝者は、その遺体の回りをぐるりと巡って、外に出る仕組み。旧ソビエトのレーニン廟にならって、同一の方法で保存したと云う、写真のとおり穏やかな顔をしていた。

ホーチミン廟,建屋内は一切撮影禁止

ホーチミン廟正面とバーディン広場、
1945年9月この広場で,ベトナム民主共和国の独立が宣言された

 
ホーチミンの執務室(左)と談話室(右)

   
ホーチミン博物館(1990年5月生誕100年を記念
して建てられた、右館内のホーチミン銅像)

 ホーチミンは1890年5月ベトナム中部地方に生まれる、父が阮王朝(グエン)に仕えるとフエに移り住む、1911年見習いコックとしてフランスに渡る、1923年ソビエトに渡り共産主義者となる。
 1939年第二次世界大戦が始まると、ベトナムはフランス、日本の二重支配を受けてしまう。ホーチミンは帰国して、ベトナム独立のための統一戦線組織である、「ベトナム独立同盟(ベトミン)」を組織して武装闘争を始める。
 1945年8月日本が降伏すると独立宣言をするが、フランスは更に植民地化を続ける。イギリスが、アメリカがここに加わる、ホーチミンは徹底的に抵抗する(第一次インドシナ戦争)。
 1954年ラオスの国境に近い「ディエンビエンフー」の壮絶な戦いで、フランス軍は敗退し ベトナムから去るが、今度はアメリカがベトナムに介入してくる、名目は「ベトナムを社会主義から守る」というが、実際はベトナムの石油権益を得る事にあったらしい。
 1969年9月心臓発作のため、ベトナム戦争の終結を見届けないまま、79歳で他界する。1975年4月サイゴンが陥落し、1976年7月南北が統一され現在に至る。
 彼は生涯独身で過ごし、清廉潔白で高潔な人柄は、民衆から尊敬を集め、誰からも敬愛された。
 南北統一後粛清された死者は百万人に達すると言う記録がある、今もホーチミンの評価は賛否両論だ。

閑話休題:「一柱寺」 ホーチミン廟とホーチミン博物館の間にある、1049年に李朝の太宗
  が創建した延祐寺内の楼閣で、一本の柱の上に堂宇を載せている、小さいながらお
  札にも印刷されて、ベトナムを代表するお寺、現在本堂を建築中。

 ホーチミン関係の見どころを訪ねたあと、米軍のハノイ爆撃で撃墜したという、B52爆撃機墜落の跡を見に行く。1965年から始まった米軍の北爆は、1972年12日間に及ぶ爆撃で、ハノイ市内に8万トンの爆弾を落としたが、B52爆撃機を34機撃墜させたと云う、当時落された一機が池の中に保存されている。


 喉が渇いた!丁度池のそばで 「よろずや」を開いているお店に立ち寄って、ビールを注文したら、お父さんが出てきて昼食を並べ始めた、「お昼を一緒に食べよう」だって!  お言葉に甘えて、鍋の中のお魚と野菜のにんにく炒め(サオ・トイ)で御飯を食べた、ベトナム人の理屈抜きの親切は、どこでも私を迎い入れてくれた。
 



 お母さんと、息子とお父さん、柔らかな笑顔が嬉しい、お母さんのお魚を食べてしまった事を少し後悔している

 午後はホーチミン廟の隣に位置する、「タンロンの遺跡」を訪ねる、11〜19世紀に栄えたベトナム王朝跡で、 2005年から一般公開された世界遺産。

タンロン遺跡全図 (上部が発掘中のホアンジエウ18番遺跡) 

 入口で入場券を購入すると、すかさず事務所から若い娘さんが飛んできた、日本語のボランティアで、遺跡を案内するというのだ、名を「オワンさん」と言い大学生で日本語を勉強しているとの事。

オワンさんとワンショット(北門)

 端門:第一城壁に造られた正門、城壁にはベトナム戦争時の弾痕が至る所にある。フランス軍もベトナム軍も、この城址の地下に司令部を置いて攻防を繰り返している、

     
端門の楼閣からフラッグタワーを見る

楼閣にて

 
 
  この竜の階段を上って皇帝の宮殿に向かう、現在は新しい建物に変わって立ち入り禁止となっている

 更に発掘中の「ホアンジェウ18番遺跡」を見学する、現在も発掘中であるが、8世紀以降のさまざまな時代の遺物が折り重なるように残されていると云う。

   
 
 
   
遺構の一部と、発掘中の遺跡 
続く