紀行

ベトナムを歩く(14)

ホイアンを訪ねる

 平成26年11月18日 池内淑皓

 7月31日午前中にミーソン遺跡を訪ねた私達は、千葉から来た二人連れと分かれてホイアンの町に向かう。
 ちょうどお昼時の到着で、街は車もバイクも少なく、ホイアンの町にふさわしい静謐を保っていた。
 「世界遺産ホイアン」は、団体旅行では絶対に訪れる観光地の一つで、チャンパ王国の時代から栄え、海のシルクロードの中継地としても賑わった。
16〜17世紀にはタイのアユタヤと並んで、ホイアンにも日本人町が造られた。
1563年(永禄6年)ルイスフロイスが日本に来た、織田信長は彼に京都での布教を許す。
1582年(天正10年)少年4人をローマに派遣する(天正の遣欧使節)。このころがホイアンでの日本人活躍の最盛期であり、御朱印船に乗って多くの日本人が渡った。
1587年(天正15年)豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、1596年(慶長元年)宣教師及び信者を処刑する。
最盛期には千人以上の日本人がホイアンで暮らしていたが、江戸幕府の鎖国令により、人も物も交流が途絶えた。その後この土地に華僑人が移り住み、中国の色合いが強くなっていった。
現在、日本人が活動した遺構は殆どなく、朽ちた墓が町はずれに残るだけとなってしまった。
1999年この街並みが世界遺産に登録され今に至る。
       「ホイアン拡大地図」 地球の歩き方「ベトナム」より引用

          昼下がりのホイアンの町、古い街並みと緑が何とも絶妙な調和を醸している

             ホイアンの町を一人占め!

           露店のおばさんも人がいなけりゃ仕方がない。

      レストランの二階から見たホイアンの町、映画のセットのように時代がかった家が並ぶ

         時が止まったように、トウボン川がゆったりと流れる

          四手網、潮が満ちてくれば網を仕掛けるのだと言う。

「日本橋」(来遠橋) 1593年に日本人によって架けられたと言われる屋根付きの橋、かつてはこの橋が日本人街と、中国人街を結んでいたと云われる。
来遠橋の名は遠い外国からくる貿易船の停泊地であったから名付けられたと言う。

        
          橋の中は木で造られている。

橋の中央には船の安全を祈願する御堂がある。
別の説には昔この海に大鯰がいて、鯰が暴れると災害が起きるので、ある時日本人がこの鯰を退治した。鯰の霊よ、安らかにと、御堂を立てたと云う(伝説)。

   
「貿易陶磁博物館」(海のシルクロード博物館)         有田焼のお皿だという。
建物は200年前の建築        
 交易で運ばれてきた陶磁器、文物、そして沈没船から引き揚げられた遺物等が陳列されている。

「チャン・フー・通り77番の家」 300年前に造られた家。入口は狭いが日本の京都に似て、間口が狭く奥行きが長い、天井から壁、梁に至るまで精巧に彫刻が施されている重厚な商家

黒檀で出来ているのではないかと思われるほど黒光りする材を使い、桁に精緻な彫刻が施されている
福禄壽全の文字が入った板戸
          入口から中庭へ向かう通路、欄間は全て透かし彫

扉も、板壁も精緻な彫刻が施されている、タイルが張られた坪庭を抜けて、裏の道に出る?。
殆ど京都の商家づくりと、同じ構造となっているのに驚いた。

200年ほど前に建てられた木造の商家で、外国人観光客のために、ベトナムの民族音楽を聞かせてくれた、一日二回演奏される。

今日の日本語ガイドの「ハンさん」 マーケットで一休み、私は「ジンジャーティー」を飲む
続く