紀行

東海自然歩道を歩く(0)

 平成27年3月29日 池内淑皓

 2013年10月、11年間に及ぶ楽しかった奥の細道ウオークが伊勢神宮参拝で終了した。
明けて2014年、年頭にあたり東海自然歩道を、東京高尾山から大阪箕面(みのお)まで1,697kmを歩くことに決めた。
 このコースはかなりの部分が交通不便な場所が多く、単独で歩くのは非効率で(タクシーで山麓に入る事になるから)、歩くための利便性に欠けている。バスの便はあるが、村里はすっかり過疎となってしまい、一日数便しか運航しない場所が多くなった。
 出発は敢えてこだわって、日本橋の道路元標を踏んでから、東海自然歩道の出発地点である高尾に向かう事に決める。またゴール後は、大阪箕面から大阪駅まで歩いてゴールするつもりでいる。

 2014年(H26)2月23日(日)時折空から雪が舞い落ちる肌寒い陽気であるが日本橋に向かった。この日は丁度東京マラソンの日で、日本橋、日比谷一帯は道路封鎖となっていたので、日本国道路元標の撮影には絶好の機会であった。
写真を見ながら高尾まで甲州街道を歩いて行こう。

日本橋から甲州街道を西へ、三日かけて京王高尾山口駅まで歩いた。

日本橋高札場跡にて、後方は無粋な高速道路が走る日本橋
「日本橋」 慶長八年(1603)この時日本橋を初めて架けらる、慶長九年日本橋を元と定められ、東海道および越後、陸奥等の諸道へ一里塚を築かしめられる。36丁一里の積りなり(武江年表)

「日本国道路元標」  ”擬宝珠高欄、橋の長さ28間。江戸町中の中央にして、諸方の行程これより定む。
 京師三条より当橋まで124里15丁、宿駅53次これを東海道と云う”。
 道路元標日本橋の中央に埋まる。 写真は東海道方面を見る、この日の朝は東京マラソンのため自動車通行禁止となっており、自由に写真が撮れた。

「新装なった東京駅」  甲州街道は呉服橋から北町奉行所前(遠山の金さん)を通り、馬場先門から日比谷に向かうのであるが、マラソンのため日比谷は全面交通止め、竹橋経由で行くこととした。

「四谷大木戸跡」 江戸時代この辺りは寂しい所で、四方が谷になっていたというし、一方疎らに4軒の家があったという、四谷の名の起こりである。ここに木戸を設け江戸入りを取り締まった所、(国史跡)

「半蔵門」 江戸城内へ入口の一つ、家康が江戸城に入ったとき、槍の半蔵がこの門を守った。この槍は、半蔵門近くの西念寺に現存している。甲州街道はここを右折し、新宿に向かう。
(西念寺は服部半蔵が創建した寺である、お墓もある。家康の長男「信康」は織田信長に疎まれ、乱心を理由に切腹させられる、介錯をしたのが半蔵で、主君の命とはいえ、世の無常を感じ仏門に入った)

「新宿御苑」 信州高遠城藩主内藤家の江戸中屋敷、広大な邸内には玉川上水の余水を引いて池、泉を設け敷地面積58万3千uもある、この屋敷は明治まで維持され、そのまま新政府に引き継がれた。
内藤新宿は元禄十二年(1699)甲州街道で最も遅く設けられたが、甲州道と青梅街道との追分にあたり、大層賑わったという。

「高井戸宿」 家康江戸入府時は正保年中(1644)野村彦太郎将重の代官所となっていた、上高井戸と下高井戸に分かれていたが、現在当時の遺構は全くない。

「国領神社」 国領は布田五宿(下布田、上布田等)の筆頭で国家の領地を意味する。
古代には国衙直轄地で、江戸時代には天領であった。”布田は朝廷へ調布を貢せし事国史等に詳らかなり、この地で産する布を集めて、川辺に晒し、府に収める、これが布田の名の起こりである”
国領神社はこの地方の産土(うぶすな)。 4月に入ると藤が美しい花を咲かせる。

「大國魂神社」 武蔵の国「府中」に在り、景行天皇41年(111)創立。大化の改新で武蔵国府がここに置かれたので、国司が国造りに代わって運営し、近在六つの神社をここに集めてお祀りしたという。 武蔵の国総社六所明神  祭神:大巳貴命で出雲の国大国主と同じ神

本殿は寛文七年(1667)の建造。 神社前のケヤキ並木は500m続き、国の天然記念物に指定、永承六年(1051)源頼義、義家父子が奥州平定を祈願してケヤキの苗を奉納したのが始まりと云う。

「谷保天満宮(やぼてんまんぐう)」 昌泰四年(901)菅原道真が九州大宰府に左遷されたとき、三男菅原道武もこの地に流されたという。道真死した後道武は仏像を刻み社に奉納した、仏像の出来栄えが”いまいち”で、野暮ったかったと言う、「野暮天(やぼてん)」の名の起こりである。
「日野宿本陣跡」 (元々は脇本陣) 日野本郷の名主屋敷、東京都内に残る唯一の本陣建築で、大黒柱や式台付玄関にその風格が残る。
江戸時代には建屋の街道に面して近藤勇、土方歳三らが稽古をしていた天然理心流道場があった。(それらの遺構、今はない)。

新撰組でおなじみ、彼らはここから京に向かい時代の寵児となる。

「産千代稲荷」 八王子宿(横山)に在り、ここは大久保石見守長安の陣屋跡である。
長安は甲斐の国出身で山を見る目が肥えていた、石見銀山、佐渡金山等金山開発に功があり、家康から八王子三万石を与えられた。
八王子の発展に尽力し街道、宿場の整備、織物等の殖産に注力した。
また長安は道中奉行としても功をなし、一里塚を考案し、里程標を造り荷駄、運賃の制を定めている。数々の功績を残し老中まで上りつめたが、金山奉行時不正があったとして切腹させられる。

「八王子千人同心の碑」 徳川家康が江戸入府の折、万一豊臣遺臣達の攻撃があった場合に備えて、甲州へ撤退できるように武田家の遺臣500人と多摩の浪人500人を加えて千人とし、甲州口を守らせた。
甲府は幕末まで天領で、徳川家直轄の旗本が守りについた。

 
      2014年3月29日(土) 14時到着、日本橋から66kmであった。
            2月23日(日)  日本橋→下高井戸を歩く      (17.4km)
            3月 3日(月)  下高井戸→谷保天神を歩く     (23.5km)
            3月29日(土)  谷保   →京王高尾山口駅を歩く(24.8km)
      4月20日には東海自然歩道その一歩が始まる。

この項完 (東海自然歩道を歩く(1)高尾山に続く)