2015年9月17日(木)開催
FWA池内淑皓
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藤沢宿散策 8km 地図 |
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三協会合同ウオーク時に使用した地図
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藤沢山清浄光寺(通称遊行寺)
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慶長五年(1600)関ヶ原の合戦が徳川家康の勝利で終わると家康はいち早く江戸と京を結ぶ街道の整備に着手した。藤沢は慶長六年に東海道の宿場となった。主として人馬継立の問屋場としての機能である。
後に戸塚宿と川崎宿を入れて、江戸から6番目の宿場となる。慶長八年家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開設する。
慶長八年家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開設する。
慶長九年二月「日本橋を基と定め、東海道及び越後、陸奥等の諸道へ一里塚を築しめらる・・・・」 ここに東海道五十三次が誕生した。
藤沢宿は五十三次整備以前に、既に遊行寺(清浄光寺)の門前町として栄えていたし、鎌倉時代には大山阿夫利神社への参詣道としても利用されていた。頼朝も戦勝祈願をしたし、政子は安産祈願をしている。
明治二年(1869)諸国の関所が廃止される
明治三年各宿場の本陣の制度が廃止、誰でも宿泊できるようになる
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白旗神社
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明治五年助郷の制度を廃止する、飛脚に代わって郵便制度が定まる
明治五年新橋--横浜間に鉄道が開通する
明治二十年横浜--国府津間が開通する、戸塚宿は鉄道歓迎で宿場の中が駅となった、藤沢宿は鉄道が今の御殿辺公園(白旗神社)から済美館付近を通る予定であったが、宿場に鉄道が通ると歩く旅人が減る、宿場が寂れる、汽車の煙で火事になる等の理由で鉄道を通らせなかった。
このような時代背景を頭に入れて、藤沢宿を散策してみよう。
今日の出発は奥田公園です。
国道467号線(江の島道)を北に藤沢駅方向に歩きます、JR東海道線をガードで潜り、藤沢郵便局前の交差点を右折して、境川を東橋で渡り、川沿いに左岸を歩く、この道は「鎌倉古道」です。南に行けば弥勒寺を通り、大仏切り通しに到る道。
やがて道の左手に「船玉神社」が見えてくる、鎌倉時代にはここから材木を切り出し、この岸から鎌倉へ積み出したと云われている。神社は船の航行安全を祈り社を建てた、祭神は弟橘愛媛の命。
道は国道一号線にぶつかるから右折して、信号で国道を横切り、目の前の「遊行寺」へ向かおう。今回は通車門からお寺に入ります。
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永勝寺の飯盛り女たちのお墓
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藤沢山清浄光寺(通称遊行寺)
時宗の総本山、遊行四代呑海が鎌倉時代の正中二年(1325)に創建、永正十年(1513)戦乱により焼失、江戸時代に入って再建された。
本堂から左手の中雀門は唯一火災から免れた重要文化財、明治天皇は二度この門を潜っている。
また境内の大銀杏は樹齢650~700年といわれ、天然記念物。
一休みの後私達は正面の石段を下り、正門である黒門から出ます。
鎌倉古道と云われる門前の道を右折して、境川に架かる御殿橋を渡り、大きな楠を横目に右に路地を入ると、藤沢公民館の前にでる、ここが天正時代の文禄四年(1595)に造営された徳川将軍家専用の宿泊施設です。六千坪の広さを誇り、東海道の宿場が完備するまで家康、秀忠、家光等28回使用された。今はその面影もなく、御殿橋、御殿辺公園、陣屋小路にその名を残すのみとなっている。
次の訪問地は白旗神社、本殿は天保六年(1835)の再建で、寒川比古命と源義経を祀る、坂戸町の総鎮守。 |
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永勝寺を訪ねてみよう、法谷山永勝寺 浄土真宗(一向宗)元禄四年鎌倉に創建したがここに移したと言う。本尊阿弥陀如来、本堂左手の太子堂内には親鸞聖人作と伝わる聖徳太子像がある。そして何よりも特筆すべきは、境内には苦界に身を沈めた飯盛女達のお墓がある。宿場の真ん中、東坂戸町にある旅籠「小松屋」(現ラーメン屋さん)の墓地があり、その中に奉公人、飯盛り女達のお墓が39基もある。施主は「小松屋源蔵」(屋号)で、主人にかしずくように、宝暦11年(1761)から享和元年(1801)までのお墓が並ぶ。
江戸吉原の遊女達は、郭の中で他界すると、近くにある千住の「浄閑寺」に投げ込み同然に葬られた、墓地に建つ新吉原総霊塔には ”生まれては苦界、死しては浄閑寺”の川柳が彫られている。小松屋の飯盛り女たちは何と幸せな事か。
藤沢公民館(済美館)でトイレ休憩します。済美館とは公共施設では馴染みのない名前であるが、明治初年「郷学所済美館」が設けられその名に因む、また昭和の頃は武道場、市議会議場、警察署の道場としても使用された。
帰路は旧東海道を南に向かいます、藤沢橋交差点を過ぎ、旧道を藤沢駅方面に向かいます、この道は旧江の島道です、10分程歩けば駅のロータリーはすぐ目の前。
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