江川太郎左衛門と韮山反射炉 解説
                                                          2015年11月12日(木)
                                                                 池内淑皓

36代当主江川太郎衛門英龍
(ひでたつ)
 「越後屋!お主も悪よノー」で有名な、悪代官の決まり文句とは全く違って、源頼朝の旗揚げから徳川幕府265年間、民政一筋に生涯を投げ打った一族がいた、江川太郎左衛門である。
 享保八年(1724)から宝暦八年(1758)を除き、鎌倉時代から江戸時代を経て明治維新に至るまで代官職を務めた。その管理地は伊豆、駿河、相模、武蔵、甲斐に及び、天領5万4千石を掌握したが、幕末には26万石の広さに及んだ。
 相模の国では藤沢宿も管理区域に含まれたが、彼は代官屋敷を作らなかった。庄屋、宿役人に運営を任せたのだと言う。江川太郎左衛門なる人物は何者なのだろうか、彼の身辺を解剖してみよう。
 平安時代、清和源氏の流れを汲む源満仲の二男宇野寄親を家祖として、「宇野」姓を名乗り京に住んでいた。
 保元元年(1156)皇位継承問題で後白河法皇方と崇徳上皇方が分裂して、武力衝突に至る保元の乱が勃発する。これはまた、後白河法皇側についた平家一門と、源氏の代理戦争でもあった。6代親治はこの乱を避けて、孫親信と家の子郎党達を引き連れて、伊豆の八牧郷江戸川に移住する。
 親信の子治信はこの地に流罪となって来た源頼朝を助け、治承4年(1180)頼朝旗揚げに従い味方する。この功により伊豆江川庄を安堵された。
 源氏の世になると頼朝を強く支え、北条の世になると北条氏を支えた、この頃名字を宇野から治めている江川を姓とした。  うしろに箱根を控えた伊豆国は東国に向かう要衝の場所である、北条氏もここを重視し、江川氏を重用したが、28代英長は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの時、北条氏を武将としての限界を悟り、徳川家康に味方する。逆に勝手知った北条攻めで功を挙げ、家康から領地安堵とその土地の代官を命ぜられた、江川家発展の礎はここから始まる。
 太郎左衛門の呼び名は江川家の代々当主の世襲通称である。江川太郎左衛門代々当主の中で、36代江川英龍(ひでたつ)が特に有名で、名君の誉れが高い。
 英龍は享和5年(1801)5月生まれ、通称太郎左衛門英龍、父英毅が長命であったため英龍が代官職を継いだのは天保6年(1835)35歳の時であった、この期間が英龍にとって自分を高める大きなチャンスとなり、江戸に遊学し、岡田十松に剣を学び同門の斎藤弥九郎と親しくなる。彼は神道無念流の免許皆伝、江戸三大道場の一つ「練兵館」の創立者である、彼とは生涯良き友となる。絵画は大国土豊に学び後谷文晁に師事する、刀剣の製作も行っている。
 渡辺崋山、高野長英とも交友があり、「蛮社の獄」で危うく牢に繋がれる所であった。
 天保8年(1837)外国船が浦賀沖に現れると、幕府は異国船打ち払い令を制定する、世に云う「モリソン号事件」が発生する(モリソン号は浦賀に来て砲撃するが、日本は全く太刀打ち出来なかった)
江川英龍も代官職として管轄区域の伊豆、相模湾沿岸の海上防備に大きな関心と危機感を持つようになっていった。
 当時日本の沿岸警備の大砲は青銅製の旧式で、砲術の技術も和流砲術の古色蒼然としたものであった。
英龍は幕府老中水野忠邦より正式な幕命として、「高島秋帆」に弟子入りして、長崎で近代砲術を学ぶことを許可され長崎に赴く、技術習得後全国の藩士達に伝授し教育した。
佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)等多くの逸材が英龍の門下で学んでいる。
 嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来て開国を迫る。困った幕府は江川英龍を「勘定吟味役格」に登用させ、老中・阿部正弘の命で江戸湾に台場を築く指示を下す。
しかし嘉永7年(1854)日米和親条約が締結されると、予定した台場10基のうち、5基が完成したのみで工事が中止させられた。
 この間大砲の脆弱性を見抜き、外国船の持つ鉄製の大砲に太刀打ち出来るよう製鉄炉の調査を開始する、当初は伊豆下田に建設予定であったが韮山に反射炉を作り、鉄製の大砲を製作する準備をしたが英龍の死で、子の江川英敏が遺志を引き継ぎ完成させた、親子二代で造ったのである。また鉄製の洋式軍艦も製造している。

 江川太郎左衛門英龍のエピソードを紹介して本稿を閉じる事としよう。
     *  大砲の製作に並行して火薬がすぐ爆発する信管(爆裂砲弾)の研究開発をする。
     * 専門的な軍隊の必要性を説き、農家の次、三男を対象に「農兵」として軍隊組織を作った。反射炉で造った新式鉄  砲を用い効果的な戦果を挙げた。
 たとえば武州で発生した一揆は横浜襲撃を目指して南下してくるのを、太郎左衛門が編成した武州農兵によって一揆を壊滅させた。
 また入間郡所沢から江戸に向かった一揆も田無村農兵によって阻止壊滅させている、甲斐の国でも同様な一揆を防いでいる。
     * 安政2年(1855)水戸藩はこの組織を採用して、三浦半島海岸の警備に当たらせ、長州藩も現地へ千人規模の農兵を置いた。
     * 天保13年(1842)戦闘に必要な行動食として今までの干し飯に変わって「乾パン」を作った、当時乾パンは兵糧パンとも呼ばれ、その後諸藩はこぞって採用した。
     * 農兵の洋式訓練のなかで、「気をつけ!」、「右向け右」、「回れ右」等の号令も西洋の文献から日本語に取り入れたのは彼であった。
     * 管理地の武州多摩地方の日野に出向いたとき、天然理心流の道場で稽古を付け、幕末の尊王攘夷運動について語り、後に新撰組の結成につながる。土方歳三は英龍の農兵構想を学んだと云われる。
     * 林業にも精通しており、武蔵高尾山にスギの植林も行っている、樹齢153年に達する杉があり、江川スギとして今でも有名。
     * 農業では二宮尊徳を招聘して農地の改良を行い、商品作物の増収を目指した。 
     * 嘉永年間種痘の技術が伝わると、いち早く領民へ積極的に接種を推進していった。

 こうした領民を思う英龍の姿勢に彼らは「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。
 安政2年、あまりの激務の為病に伏せる、1月16日ついに鬼籍に入る。
 法号 「誠実院殿真是理法日行大居士」日蓮宗の橋場妙高寺に葬られた。
 法号は文字通り、誠実な真に法に理った行いを日々重ねた、と。
 三河武士の末裔として愚直なまでに誠実を貫いた人であった。

 韮山反射炉

明治期の反射炉
 伊豆の国市中字鳴滝入に英龍が計画し、跡を継いだ息子の江川英敏が築いた反射炉が現在も残り、近代化産業遺産群の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録された。今までの青銅製の大砲では威力のある大砲が造れない(砲が割れてしまう)、そのため、外国船が持つ鉄製大砲の威力を目の当たりにして、それに太刀打ちできる大砲を作らねばならなかった。従来のたたら製鉄より火力の強い反射炉を作り、銑鉄を作る必要性が生まれた。
 反射炉とは、銑鉄を溶解して純鉄を生産するための炉で、鉄を溶解させる千度以上の火力が必要。幕末の日本は「コークス」を作る技術が伝播していなかったので、主として炭で炉を加熱して常磐炭鉱から入手した石炭で火力を上げた(平成27年11月12日現地にてボランティアガイドさんの解説による)
(鋳鉄の溶解度は1,100度。純鉄の溶解度は1,540度)

反射炉断面図

 そこで天井に熱を反射集中させる事で高温を得る構造となった。
 反射炉の製造については高島秋帆に伝授される。
 始めは嘉永6年(1853)下田に作る予定であったが、日米和親条約で下田に外国人が来ると情報が漏れるのを嫌い、韮山に作る事となった。
 安政2年英龍が病没すると子の英敏が佐賀藩の技術者の援助を受けて安政4年完成させた。元治元年(1864)反射炉の使用が中止されるまで、多くの大砲、鉄砲等を製作した。
 明治に入って陸軍省に移管され、明治42年炉に鉄帯が巻かれ補強される。
大正11年管理が内務省に移り、史跡に指定された。
昭和32年、昭和60年、平成元年の修理を経て現在に至る。
 江戸・明治期で今に残る反射炉は外国にはなく韮山と、萩の反射炉だけである。韮山反射炉で鋼鉄を生産したことが特筆される、外国船の大砲に対抗出来る鋼鉄製の大砲をここで作ったのだ。そして江川太郎左衛門英敏は、父の遺志を継いで、この大砲をお台場に備え付けたのであった。
 安政7年ペリー艦隊が再度浦賀沖に現る、そのまま幕府に直談判するために将軍のおひざ元品川沖まで来たが、十字砲火に対応できる台場の構造と、キラキラ光る鋼鉄製の大砲に恐れをなして横浜村に向かい上陸する。
 今の横浜の繁栄は江川太郎左衛門の功績無くして語れない。
 平成27年夏、陸続きとなったお台場海浜公園で、初めて海水浴が出来るようになった。夏草の繁る中に、砲台の台座と硝煙倉が残されている。
  
                                                 完