紀行

水戸街道を歩く(1-1)
日本橋⇒駒形

 平成29年2月27日 池内淑皓

初めに
「東海自然歩道を歩く」は、2016年11月23日現在、岐阜県大垣市揖斐川町の樽見線「神海」駅まで来ている。12月から2017年3月彼岸までは伊吹山麓、関ヶ原地方は雪のため歩行困難な個所が多く、危険が伴うウオークとなるので歩行を中断。
 その間体力を維持するため水戸街道を歩くこことした。日本橋から水戸まで30里(約120km)。江戸人ならば2~3日で行けるが老齢な私の事、社寺仏閣、名所旧跡を訪ねながらぶらぶら歩いて、梅が咲きだす2月末頃水戸にゴールして偕楽園の梅を見ようと思う。
 水戸街道を歩くガイドブックは少なく、街道の道しるべは無いに等しい、幸い1995年に購入した「旧水戸街道繁盛期」(山本鉱太郎著)崙書房出版 が手元にあったので、これを羅針盤として歩いた。
    
 2016年11月13日(日)晴れ
 
「水戸街道宿場」 19宿で水戸に到着する

今日歩く予定の宿場と距離

「歩行地図」日本橋→浅草→回向院→千住宿→小菅刑務所前→常磐線亀有駅ゴール 
2016年(H28)11月まずまずの日和にて仲間達と水戸に向けて出発
日本橋は慶長八年(1614)の創架、現在の橋は明治44年竣工。欄干の文字は徳川慶喜の筆による
現在の石橋は明治44年4月架橋された。

「この地は江戸の中央にして、諸方への行程もこの所より定めしむ」(徳川実記)
五街道の起点でもある橋の中央に「日本国道路元標」の真鍮プレートが埋め込まれている。
私達もこの元標を踏んで水戸へ旅立とう。偕楽園の梅が咲く頃には水戸にゴールしたい。

橋の袂には魚河岸の碑が残る、江戸時代慶長(1602)の初めからから大正12年の関東大震災までここにあったが、護岸が破壊して しまい築地に移転した。大久保彦左衛門と一心太助は有名

魚河岸時代の老舗が残る、山本山(海苔)、大和屋(鰹節)等
水戸街道は三越の先、千疋屋の前を右折し日光街道(奥州街道)と別れて洋服問屋街を行く

「宝田恵比寿」 江戸時代は「べったら漬け」が有名で、麹のついた大根を振り回しながら歩いたと云う。

「伝馬町牢屋敷跡」 今は十思公園となっているが、明治8年市ヶ谷に監獄が出来るまで、270年間に数十万人の犯罪者を投獄し、一万人以上の人が刑死した。
 公園内には江戸市中に時を知らせた「時の鐘」がある、処刑がある日はわざと遅く撞いたと言う。

「吉田松陰終焉の地」 井伊直弼による安政の大獄では吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らが刑死した。
松陰辞世の句がここに残る。
  ”身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂”
  ”白露もこぼれぬ萩のうねりかな” 彼の松下村塾から明治の元勲たちが多く巣立っていった。

「浅草橋」 神田川に架かる橋。江戸時代は浅草見付で、ここに江戸城入口の浅草御門があったところ

「柳橋」神田川が隅田川に注ぐ手前に柳橋がある。この辺りは江戸時代から料亭の多い所、今はすっかりさびれてしまった。小松屋さんは昔からの船宿  (遠方の橋は浅草橋)

昭和41年頃の写真。上の場所と同じ位置で撮影

小松屋さんを見る

水戸街道は浅草橋で日光街道と合流して千住まで同じ道を歩く。 「駒形どぜう」の前を歩く
創業は享和元年(1801)、吉原から朝帰りの酔客で賑わった。長い張り板の上に七輪を載せて、葱を山盛り鍋に載せて柳川鍋をつつく、今も変わらずこのスタイルを貫ぬいている。

「駒形堂」 昔はここに浅草寺の総門があった。祈願する者、かならず駒の形をした作り物を堂内に奉納したと云う。

「殺生禁断の碑」 駒形堂の隅にある。 元禄六年(1693)五代将軍綱吉の時代に建てられた。
昭和2年発掘され再建した。 江戸の金魚を藤沢の遊行寺に運び放生池に放した記録がある。

この項完

水戸街道を歩く(1-2)浅草から亀有に続く