紀行

水戸街道を歩く(1-2)
浅草~千住宿~小萱~亀有

 平成29年3月10日 池内淑皓

 水戸街道を歩く(1-1)では日本橋から浅草駒形堂まで記述した、続きを書こう。
駒形堂を見た後浅草雷門に向かい、千住に出て昼食。午後は荒川を越え、小菅から亀有に向かった。

「雷門」 水戸街道(日光街道)は駒形堂前から直接雷門前に出て右折し、吾妻橋に出る。
 雷門は慶応元年(1865)焼失、現在の門は昭和35年鉄筋コンクリートで再建された。外国人観光客が圧倒的に多い、私達も仲見世を冷かして浅草寺にお参りし、二天門を抜け、姥ヶ池を通り街道に入る。

 仲見世を歩く外国人で一杯。 正面は浅草寺
推古36年(628)隅田川で漁をしていた網に金色に輝く一体の観音像が上がる、本尊とし秘仏とした。

「待乳山聖天」 本当の名は”真土山”と書き浅草寺の末寺。標高9.8mの小高い丘の上にあるから聖天山と呼んだ。
 入口の常夜灯に大根が彫りつけてあるのが有名で、売店で大根を買い聖天様に供える。
 街道はここから隅田川を離れて南千住に向かうが少し横道にそれて吉原を訪ねてみよう。

「吉原大門跡」江戸随一の歓楽街。江戸時代の初めは日本橋富沢町辺りにあったが、明暦三年(1657)台東区千束のここに移された。
写真手前の碑は見返り柳がある所、郭の中は数軒のソープランドがあるのみ、松葉屋は廃業した。

「浄閑寺・新吉原総霊塔」 涙橋交差点から左へ10分程三ノ輪方面に歩くと寺がある。
 別名“投げ込み寺”と呼ばれた。寛文四年(1664)以来遊女が二万人程投げ込み同然に葬られた。
 寺の奥に建てられた新吉原総霊塔には遊女たちの骨壺が並ぶ。
        ”生まれては苦界死しては浄閑寺”の川柳が書かれている

「小塚原刑場跡」東海道の鈴ヶ森刑場と並び称される奥州方面の刑場で、先ほど通った涙橋が罪人と別の場所で、現世との境であった。
 この首切り地蔵は高さ3.5mあり、寛保元年(1741)刑死者の霊を弔うために建立された。明治に刑場が廃止されるまで約20万人が処刑された。安政の大獄、桜田門外の変、坂下門事件等有名人の刑死者が多い。
 解体新書でおなじみの前野良沢、杉田玄白の腑分けの碑もある。明和八年(1771)の事である

「素戔雄神社」(すさのおじんじゃ) JR南千住をガードで潜り隅田川を千住大橋で渡ると、石造りの大きな鳥居が迎えてくれる。
 延暦14年(795)の創建で、祭神は天照大神の弟「素戔雄命」別名牛頭天王。

「芭蕉旅立の碑」
 ここは何よりも、松尾芭蕉旅立ちの場所として有名。元禄二年(1689)深川芭蕉庵から隅田川を船で遡り、ここに上陸して奥州に向かった。
“・・・・・千住という所にて船を上がれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそそぐ”

「千住宿」隅田川を千住大橋で渡れば最初の宿場である千住宿に到着(二里八町)
 昔は関屋とも呼ばれた古い宿場で、鎌倉初期に江戸重長が関を設けたのが始まり。

嘉暦中(1326~29)荒川を流れてくる千寿観音像を拾い上げ、町の名前にしたと云う
また、足利義政の妾千寿の生地を以って名付くとも云われている。

「絵馬屋」 東京で唯一残る絵馬屋。
 経木に胡粉を塗ってその上に泥絵具で鶏や馬、牛、龍などを描いたもので、一つひとつ丁寧に描く。
 昔の人はここで求める絵馬を買い、神社に奉納して無事を祈った。

「日光街道と水戸街道の分岐」 名倉接骨院手前のT字路を日光道から分かれて右に折れ、細い路地を東に向かう。道標は水戸佐倉道となっている。 

道は静かな住宅地を抜けると荒川に突き当たり、船渡しとなる。
橋が無いから上流に架かる千住新橋まで迂回して、対岸の船渡しの場所に戻る。

 「水戸橋」小菅一丁目に入って、綾瀬川を水戸橋で渡る。橋の左手は「東京拘置所」昔の小菅刑務所、頭上には高速道路が通る

昭和の水戸橋、石垣は江戸時代のもの。
当時は船宿もあり川魚料理を出す料亭も軒を並べていたと云う。

小菅辺りの水戸街道、所どころ案内板があるのが心強い。

「亀有の一里塚」丁度亀有駅入り口の交差点脇にある。日本橋から三里、千住から一里。中央に水戸黄門様の似顔、左右に助さん、格さんが彫り込まれている。

「夕暮れの常磐線亀有駅」 亀有には15:45に到着したが、いつものように居酒屋に寄って打ち上げ、ほろ酔いで店を出れば、すっかり日が落ちていた。

この項完

水戸街道を歩く(2) 新宿-松戸宿-馬橋宿-北小金駅 に続く