紀行

水戸街道を歩く(2)

新宿-松戸宿-馬橋宿-北小金駅

 平成29年3月15日 池内淑皓

2016年(H28)年1215日(木)晴れ 前回の続きで、常磐線亀有駅から歩き始めて新宿(にいじゅく)を訪ね、江戸川を葛飾橋で渡り千葉県に入る。松戸宿で昼食とし、馬橋を通り小金宿(常磐線北小金駅)をゴールとした。

「水戸街道全図」  赤印は今日歩く宿場

江戸-松戸宿---小金宿地図

今日歩く新宿~松戸宿~小金宿間行程図

朝は寒いが天気は上々、秋元治さんの「こち亀」のメンバー達に見送られて亀有駅前を出発

前回ゴールした一里塚前の水戸黄門、助さん、格さんにも見送られて東に向けて出発

道路の到る所に“こち亀”の像が並ぶ、これは両津さんの銅像

道は中川にぶつかるから、中川橋で越える、この橋の袂に江戸時代船渡しの石畳があったが今は護岸工事で撤去されている

水戸街道新宿概念図((旧水戸街道繁盛記・山本鉱太郎著)

「新宿(にいじゅく)」 千住と松戸の間にある宿場で、本陣、脇本陣はない。参勤交代の大名たちもここには泊まらず休息するだけであった。昔の面影を留める遺構はない。
唯一旧中島邸の長屋門があったが、保育園の庭の延長と言う理由で取り壊されてしまった。
また常磐線がここを通る計画に対して、猛反対したと云う、渡し船の賃銭が取れなくなるからだと云う。

 
「立増寺」(日蓮宗) 新宿に入って最初のお寺、永生元年(1504)日位上人の創建。本堂は昭和43年の造堂   本尊:阿弥陀如来坐像

「日枝神社」宿場の真ん中にある。山王さまとして親しまれてきた土地の産土。 敬神愛人と書かれた扁額がユニーク

「浄心寺」このお寺には2.26事件で犠牲になった清水巡査の墓がある、反乱軍から射撃を受け死亡。 岡田啓介総理大臣は辞職し、ここに清水巡査の墓碑を建て供養した。

宿場を離れて街道を行くと傍らに六地蔵、庚申塔、馬頭観音等78基ほどの石仏が置かれている。
近在の辻にあったものをここにまとめて置いたという、柴又帝釈天への道標もここにある。

「帝釈道道標」 この先右折すれば、金町2丁目、柴又2丁目を通り寅さんでおなじみの帝釈天に行ける。
明治時代には金町駅から柴又帝釈天行きの人車鉄道が走っていた

旧水戸街道はここから常磐線「金町」駅前を抜けて常磐線の北側に出る。
金町は古い町で「新編武蔵風土記稿」にも出ている。
・・・金町は葛西庄に属す、村の中ほどを
貫きて常陸の国水戸街道にかかれり・・・道幅二間半・・・

「葛西神社」 創建は平安時代の元暦2年(1185)ここの総鎮守として、葛西三郎清重公が香取神社の分霊を祀ったのが始まり。 祭神は経津主命、ヤマトタケル、徳川家康尊
ここで徳川家康尊が面白い。天正10年(1582)家康は神社に玄米10石を寄進したと云う、爾来家康を尊として祀ったと言われる。

街道を少し離れて北西へ2km程歩くと、水元公園の外れに南蔵院と言うお寺が有り、境内にしばられ地蔵尊がある、有名であるから見に行こう。荒縄でぐるぐる巻きにされた地蔵尊が人気。

「業平山 東泉寺 南蔵院」 貞和4年(1348)開基、元禄11年(1698)本所八軒店に移転したが、昭和4年この地に移転した。南蔵院の境内には有名なしばられ地蔵尊がある。

「しばられ地蔵」  
享保の昔、呉服屋の手代がこの地蔵尊の前で休憩中呉服が盗まれてしまう。手代は南町奉行所の大岡越前守に訴えたところ、目の前の地蔵に向かって盗んだ泥棒を見過ごしたのは同罪として、地蔵尊を荒縄でぐるぐる巻きにして、江戸市中を引きまわし、南町奉行所の白洲に据えた。物見高い江戸町民、わんさと白洲に押し掛けた・・・・・・この顛末は水戸に着いたら書こう、お楽しみに。

江戸川を葛西橋で渡ると下総国に入り、松戸宿となる( 松戸宿入口付近の渡し場跡)

「松戸宿道標」 江戸時代、横町船着き場の納屋河岸と呼ばれた土手を下れば松戸宿の玄関である。
金町・松戸の関所は船着き場の所にあった。間口三間半、奥行き三間番所の前には大石が二個置かれていたという。

松戸宿

「松戸宿」所どころ昔の名残が見える 本陣は郵便局の辺り、脇本陣はその隣。 明治二年、本陣からの出火で町が丸焼けとなってしまう。後に江戸川の水運を利用した物流が町を発展させ、鉄道が宿場を通ったため今日の繁栄となった。

「栄泉堂 岡松」栗蒸し羊羹が名物 私もこのお店で羊羹をお土産に購入した

 
上品な甘さが絶品

「松竜寺」

「松戸神社」 創建寛永3年(1626) かつては御嶽権現と称した  祭神:日本武尊
ヤマトタケルが東征の砌、従者待ち合わせした場所がここで、「待つ郷」→「御士」となり「松戸」の名が 生まれたと言う。

「萬満寺」 禅宗 建長8年(1258)小金城主の千葉頼胤が鎌倉極楽寺の忍性を招いて堂宇を修め、真言宗の大日寺を開いたのが初め、関東管領の足利氏満の満を取った。 明治二入り蒸気機関車の煙で堂塔伽藍を焼失してしまう。仁王門は慶応三年の再建、本堂に収まる「木造金剛力士像」は重要文化財

「水戸街道道標」馬橋駅前萬満寺を過ぎ、国道6号線にぶつかる交差点にあり、文化三年子寅と刻印されている。水戸街道では立派な道標で貴重、車がぶつかって折れなければ良いが心配だ。

「旅籠玉屋」 北小金の宿場では貴重な旅籠、よくここまで残してくれました。

「東漸寺」 浄土宗 関東十八壇林の一つ
文明13年(1481)浄土宗音誉門下の経誉によって根木内(小金の先に有る地名)に開かれ、後に小金大谷口城の完成と共に出城としてこの地に移転してきたと言われる。

「東漸寺 本堂」 享保七年(1722)には堂塔伽藍、学寮など20数か所もの堂宇を擁したと云う名刹も、明治の廃仏毀釈でそのほとんどを失う

満福寺、東漸寺、北小金宿

「小金宿」 江戸より八里二十四町。 水戸街道の重要な宿場で、江戸と水戸の中間の距離にあったからで、本陣が置かれ、日暮玄蕃の子孫が代々務めた。江戸への往来、鷹狩等歴代の藩主が泊まっている。

 丁度切りの良い距離だからゴールとしよう。冬の日は短く、急に寒くなる。

この項完

 
 水戸街道を歩く(3)北小金宿--我孫子宿--取手宿へ続く