紀行

水戸街道を歩く(5)

牛久宿~荒川沖宿~中村宿~土浦宿

 平成29年4月1日 池内淑皓

2017年2月6日(月)晴れ、牛久宿から歩き始める。今日のゴールは土浦宿をひと区切りとして、土浦で一泊する予定。朝から北風が強く寒い。

今日歩く牛久から土浦までの概念図(黒印)。 赤印は既に歩いた道

牛久宿から土浦宿まで行程図 4里(16km)

上野を7時に出れば、牛久駅には8時に着く。ちょうど学生たちの通学と一緒になった。

「田宮山薬師寺」駅から歩いて15分の所にある静かな寺だ、真言宗 本尊:薬師如来

昨年の九州場所で優勝、19年振りにやっと横綱になった稀勢の里は牛久の出身。
優勝報告会には4,500人が出席し、牛久商店街パレードでは5万人が詰めかけた。
2017年3月12日から始まる大阪場所の前売り券は、発売開始2時間半で完売となった。
3月26日の千秋楽で肩を痛めながらまさかの逆転優勝、国民誰もが感動したに違いない。

「荒川沖の一里塚」 国道6号線にある貴重な一里塚、江戸から17番目で両塚が残る。
一方の塚は土浦市、他方の塚は牛久市に属すめずらしい塚だ。(土留めで囲まれた部分)

     
牛久市側の一里塚

土浦市側の一里塚

この辺りの街道は東京から57km、水戸へ50km。道中の約半分を歩いた事になる

「荒川沖宿」水戸街道は乙戸川で6号線と別れて旧道に入る、まばらに古い建物が残っているが宿場風情は全くない

「天満神社」 村の天神様、祭神は菅原道真公

「中村宿」 この宿も建物はほとんど新しい造りとなっている。

宿を外れれば、所どころ古い建物が残されているから歩いていてホッとする。

豪邸も所々に見られる。

中村宿は天保十年(1839)には戸数65とあり、沿道には松並木が続き、本陣川村茂衛門の名が見える

   
「愛宕神社」と「常福寺」 土浦市内に入る手前の旧道を下る高台にある。
愛宕神社は寛文九年(1669)土浦城主の土屋氏が城の鬼門除けに建てたもの。祭神:火伏の神
常福寺は平安時代の僧最山の開基、真言宗。木造薬師如来は国指定重文、大銀杏は樹齢400年

桜川を銭亀橋で渡れば、土浦城下に入る。(川の流末は霞が浦に注ぐ)
この桜川は室町時代の謡曲に出てくる歴史ある川で、川畔の桜並木が霞が浦まで続く桜の名所

土浦宿地図

水戸街道は土浦城下を横切るように通っている。
道は土浦城南門枡形から入り、鍵の手に曲がって城下を通り、本陣前で北に向きを変えて真鍋口に向かう

 
   
 南門枡形                        現在の枡形跡(印が同じ位置)

「東光寺」曹洞宗、慶長12年(1607)の開基   赤い建物は「瑠璃光殿」 壁の彫刻が見事

「等覚寺」 正面の黒松が天然記念物、銅鐘は国指定重文

城下町を通り抜ける水戸街道

「吾妻庵蕎麦本店」 街道の老舗、鍋焼きうどんを食べたがいまいちであった

「土浦城櫓門」当時のままの門で、明暦二年(1656)朽木植綱により建てられた

土浦城は江戸時代に整備された別名「亀城」とも言う。土屋氏の時9万5千石の領地を有し、常陸地方では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇った。
城は代々譜代大名が配置され、二代藩主正直は赤穂浪士の処置決済の責任者であった。
土浦はたびたび水害に見舞われ町が水没するが、城だけは水没せず、亀の甲羅のように浮いて見える事から亀城と名付けられた、茨城県指定史跡一号である。

「土屋本陣」 城下に本陣があるのは珍しいが、ここには2つの本陣があった。
今、本陣の面影はどこにもない

「土浦道路元標」 土浦の中央、昔は桜川が流れ、桜橋がここに架かっていた。
       
ここから水戸街道を離れて、貸し自転車で霞が浦へサイクリングに行く、目標は予科練記念館

「霞が浦」 湖水面積220k㎡、水深7.1m、透明度0.6m、日本第二位の湖沼で、水際線の延長は249kmで日本一長い。もともとは海と繋がっていたが、河川の堆積物により出口が閉ざされた。
魚はワカサギ、シラウオ、鯉、鮒等であるが外来種が増加している。
1978年の漁獲量は1,748トンであったが 2000年には95トンに激減した、湖が過栄養湖となって 水質が急速に悪化してしまったのだ。
現在は淡水真珠の養殖が盛んで、浜揚げ量は全国の75%と高い伸びを示している

 
城下から貸自転車で向かった、青くきれいに見えるが、佃煮にする魚が極端に減ったと言う。
霞が浦では切っても切り離せない戦争中の負の遺産を見に行こう。

       
「予科練平和祈念館」 大正時代ここに「霞が浦海軍航空隊」が開隊、昭和14年飛行予科練習部が横須賀からここに移転し、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担った。

   
「海軍飛行予科練習生」
第一次世界大戦以降欧米列強に遅れまいとした旧海軍が、若いうちから航空機の搭乗員を育てようと、14歳から17歳までの少年を全国から選抜し訓練を行った。
終戦までの15年間で約24万人が入隊し、2万4千人が戦地に向かい、戦死者は8割の約1万9千人に上った。

”若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ、でっかい希望の雲が湧く”
                                        (予科練のパンフレットより)

「人間魚雷回天」 実物大の模型 全長:14.7m、直径:1m、重量:8.3t、乗員:1名、燃料:灯油
昭和19年に開発され、420艇造られた。戦時中40人が体当たり攻撃で戦死している。
回天の名は幕末の軍艦から名付けたが、天下の形勢を一変させようとの意味を持つ。
何ともやるせない気持ちで記念館を去った。

さて、ここら辺りで 区切りが良いから今日はここで草鞋を脱ごう、駅向こうにはホテルがあるから便利だ。 

*霞が浦の表記は国土地理院の表示に従った。一般名は霞ヶ浦であるが、この表記は変わりつつある

この項完

水戸街道を歩く(6) 土浦~中貫宿~稲古宿~府中宿に続く