紀行

水戸街道を歩く(8)

小幡宿~長岡宿~水戸ゴール

 平成29年4月9日 池内淑皓

2017年2月22日(水)晴れ。 
水戸のホテルで一泊、朝8:10発のバスで昨日歩き終えた奥ノ谷バス停に行く。
間の宿である小鶴宿を通り長岡宿に入った。長岡は江戸から最後の宿場であり、水戸から最初の宿場となる。
長岡宿は桜田門外の変で浪士たちがここに集結した所。脱藩藩士達がここで髻(もとどり)を切り浪士となった。
国指定重要文化財のある「薬王院」を過ぎれば、本町一丁目に入り水戸街道のゴールとなる、江戸より30里。

「水戸街道全図」 黒線は今日歩くところ   

「水戸街道行程図」 今日歩くコースは、二里八町(8.7km)でゴール。

水戸駅8:10発の奥ノ谷行きのバスに乗れば40分程で昨日ゴールした場所に着く(630円)

水戸街道長岡宿の地図 (1:25000)

「長岡宿」 小鶴から涸沼川を越えれば高台に宿場がある。
江戸時代はここに本陣があったが、今は遺構もなく跡地は長岡小学校となっている。

「みそ饅頭の藤屋」 宿の入口、長岡郵便局の隣にある。
創業50年であるが、水戸では知る人ぞ知る隠れた名物まんじゅう。年老いた爺、婆が二人で造っている。

   
もちろんここは製造元、素朴な味で旨い。私もお茶をご馳走になりながら戴いた。

「高岡神社」 (長岡神宮寺の杜) 長徳元年(1857)の創建  祭神:大巳貴命  長岡の産土

「木村家住宅」(県文化財)
脇本陣、問屋、庄屋を兼ねる。安政四年の大火で焼失、その後の建築という。(普段は非公開)

豪壮な建物に風格がある 

「水戸浪士の毛塚」 万延元年(1,860)尊王思想に燃える水戸藩士達は、独断専行した井伊直弼の開国に異を唱え、有志17名がここに集結して結盟を誓い、髻(もとどり)を切り浪士となり、ここに髪を埋めて江戸に向かった。

この宿も他と同様昔の風情がすっかり失われたが、わずかに古い家も残っている

水戸街道終点地図(1:25000)

街道は北関東自動車道の茨城町東ICを過ぎ、また国道から左にそれて旧道を歩く、
東野町、吉沢町を過ぎれば一里塚と云う名の町に入る。
昔は一里塚があったのであろうが、今はその痕跡が見当たらない。地名とバス停の名に一里塚の存在を示してくれる。

「薬王院境内案内図」

「吉田山薬王院仁王門」 桓武帝勅願所
桓武天皇の勅願により伝教大師(空海)が延暦年間(782-806)に創建し、代々手厚く保護されて来た

      
「本堂」国指定重要文化財
大永七年(1,527)火災で焼失、現在の本堂は享禄二年(1,529)領主江戸通泰の援助で再建された
建物の特色は唐様の要素が濃く桁行7間、梁間5間と言う大きな規模を備えた仏堂で、室町期の様式を色濃く残していると云う

「松平亀千代丸五輪塔」 水戸初代藩主頼房の次男で、寛永五年(1,629)早逝したので供養のためここに建てた。遺骨は常陸太田の瑞龍山にある。 非常に形の整った五輪塔であるので、市の文化財に指定されている。

「吉田神社の大欅」 水戸街道は県道と合流して、今度は右折すると、樹齢300年と言われる大欅見えてくる。    祭神:日本武尊命 常陸国三宮。

「備前堀、本町一丁目概念図」
市街地に入ってきた、水戸街道は備前堀を銷魂橋(たまげはし)で渡ると水戸街道終点の本町に到る

「銷魂橋」は水戸街道の出入り口、水戸光圀により元禄三年(1,690)名付けられたと云われる。
高札場もあった

道の傍らには「江戸へ三十里」の標石が立つ、この辺りには本陣があったというが何もない。
昔は賑わったはずであるが、今は水戸駅周辺の発展の陰に隠れて寂しい。

水戸街道終点、先の角を左折すれば水戸城三の丸に出る。
明治五年水戸街道と岩城相馬街道は陸前浜街道と改称され、仙台まで道が繋がった。
私も今回の旅を締めくくるべく、水戸駅前に佇む黄門様と助さん、格さんに到着の挨拶しよう。
さらに水戸光圀公生誕の地にも足を延ばして、完歩を報告したい。

水戸光圀公(義公)生誕の地は水戸城内ではなく、水戸駅そばの路地を入った所にある、
なぜだろうか?

「光圀生誕の地」 徳川光圀(義公)は寛永六年六月(1629)この地に屋敷があった家老三木之次の屋敷で生まれた。頼房の第三子であるが、頼房26歳の時侍女に産ませた庶子で、世に出て欲しくなかった子であった。
母は同家の家臣谷左馬之助の女「久子」、幼名は長丸、千代松、諱(いみな)光圀、諡(おくりな)義公
寛文元年(1、661)徳川頼房他界。あまりにも利発なため、長男頼重をさておいて二代藩主となる。
寛文二年参義(宰相)兼右近衛権中将
元禄三年(1,690)63歳で隠居(致任)、権中納言(黄門)に任ぜられる。 黄門は権中納言の官位名 
元禄十三年73歳で他界 諡 義公

「水戸城」 水戸駅から坂を上って10分程の高台にある。 大手橋を渡ると水戸城内
築城は平安時代に遡るが、建久年間(1190-1198)常陸国大掾であった平口香の子孫馬場資幹が築城。連郭式平山城で那珂川と千波湖を掘とした本丸、二の丸、三の丸があったが天守は作らなかった、防衛上の重要性がなく政庁としての機能であったと云う。

「土塁と堀跡」 水戸城は城郭がなく、石垣も少ない。

「弘道館」  国指定重要文化財 
天保12年(1,841)徳川斉昭が推進した藩政改革の一環として開設された。
神儒一致、忠孝一致、文武一致、学問事業一致、治教一致の5項目を推進する。
主として藩士とその子弟が学び、15歳で入学し卒業は無かった。 

   
正庁諸会所座敷                    第19代徳川慶喜の長持ち
                               大政奉還後、慶喜はここで謹慎した
「大日本史」(日本遺産) 光圀が精魂込めた397巻。    
光圀の命により明暦三年(1,657)編纂を開始し、明治39年に完成した歴史書397巻、目録5巻。
弘道館には嘉永四年に出版された243巻が収められている。
世に云う「助さん」、「格さん」はこの大日本史編纂のため諸国を巡り、文献調査をした学者がモデルになったと言われる。黄門様が諸国を漫遊し勧善懲悪の物語は作り話。

              
「偕楽園」 天保13年(1842)斉昭が藩内随一の景勝地として造園する。
偕楽園の名は、「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」と云う孟子の一節から名付けられた。 

2月18日が梅開きの日、今年は気候が暖かかったせいか花が多い

私も旅の思い出に一枚

園内の茶店に名物があったので、暖かいお茶をもらって水戸の梅をご馳走になろう。 

水戸街道を歩く 完

 [追記] 水戸街道を歩く(2)新宿~北小金の項で 「縛られ地蔵の続き」

ぐるぐる巻きにされ、市中引き回しの末、大岡越前の守は縛られ地蔵を白洲に据えた。
物見高い町人達、わんさと白洲に入り込んできた。そこで越前の守は木戸を閉じ、白洲に踏み込んだ連中に申す。
「何故許可なく南町奉行所の白洲に立ち入った」
「全員縄を掛け吟味するが、今日の所は夕刻までに呉服一反各自持参すれば許す」と町民達に下知し、所在を確認し、彼らを市中に解き放った。
やがて持参した呉服の中に盗まれた品物を見つけ、見事犯人を捕らえたと云うお話。
越前の守は白洲に来た町民の中に、犯人が居ると確信したのだと言う。