紀行

東海自然歩道を歩く(48)
関ヶ原

 平成29年8月15日 池内淑皓

2017年(H29)4月27日(木)晴れ
 今日は半日かけて関ヶ原古戦場めぐりをし、不破関跡から東海自然歩道に入り、伊勢街道の牧田まで歩く。(史跡は位置関係の構成上、東海自然歩道の歩行コースと写真の順序は一致しておりません)

「関ヶ原合戦図屏風絵」 井伊家伝来資料、彦根城博物館蔵(赤い幟旗が井伊軍)
嘉永七年(1854)狩野梅春の原本を、「カンゲツテイカセン」と云う絵師が模写したもの

「関ヶ原の合戦、東軍・西軍陣立て図」(青は西軍、赤は東軍) 
小早川秀秋の陣地である松尾山から関ヶ原を望む

「関ヶ原古戦場観光マップ」 (不破関は飛鳥時代(672)の遺構)

「決戦先端の地」 慶長五年(1600年)9月15日 午前8時
小西行長、島津義弘陣付近へ松平、井伊隊が衝突、天下分け目の戦いが始まる。

「決戦地」 後方は石田三成の陣地、笹尾山。
午前中は西軍有利であったが、午後に入って東軍優勢となり、家康は笹尾山の近くまで軍を進める

        記念に一枚パチリ

「笹尾山・石田三成陣地」 北国街道・伊勢街道を抑える要衝の地で、攻防に最も適している。
三成隊は6千の兵で大垣を出発、午前一時に布陣する。
西軍総崩れとなるや、三成は伊吹山中に逃れる。西軍の田中吉政の追捕隊に捕らわれ、10月1日京都六条河原で斬首。亡骸は大徳寺の三玄院に葬られた。

「島左近の陣地」 三成の陣地のすぐ下にある。
三成が家禄の半分を与えても良いと云わせた人物、三成隊の先鋒として布陣する。
家康の本陣へ迫ったが銃弾を受けて戦死。

「島津義弘の陣地」 1500の兵で二番備えとして三成の側面を守備する。
三成から戦闘の指示でも動かず、小早川秀秋の寝返りを見て戦線離脱する。伊勢街道を抜けて薩摩に帰る。生き残った将兵は300人中80数名であったという。
戦後黒田、加藤、鍋島らに島津追討を命じたが不発に終わり、家康は慶長七年(1602)領土安堵とし無罪となった。元和五年(1619)85歳で死去。

「小西行長の陣地」 合戦の火蓋はこの近くで始まり、井伊軍に対して壮絶な戦いを強いられた

「宇喜多秀家の陣地」 五大老のひとり、1万5千の兵で福島正則と正面衝突、小早川秀秋の寝返にあい総崩れとなり、三成と共に伊吹山中に逃れるが捕えられた。
八丈島に流罪となり、現地で84歳まで生きた。

「大谷吉継の墓所」(陣地はこの近くにある)」 小西行長と共に戦うが小早川の寝返りで壊滅、「病の顔を見せてはならじ」と家臣の湯浅五助に首を預ける。

 
湯浅は藤堂高虎の甥高刑に首を預け、家康に吉継の首を渡さなかった。大谷吉継の墓は藤堂家によりここに建立される。大正五年湯浅五助は吉継の傍らに埋葬された(写真左奥の柱墓)

「福島正則の陣地」 正則は幼少より豊臣に仕えたが、石田三成とは犬猿の中であったため、徳川方に付く。徳川の時代になっても豊臣の恩を忘れず、大阪の陣には出陣しなかった。
豊臣が亡びると福島家は改易となり、不遇な生涯を終えた。

東海自然歩道の道しるべに従って、小早川秀秋の陣地がある松尾山に行ってみよう。

「小早川秀秋の陣地」 私は秀秋の胸中を支持する。 関ヶ原を見渡せる絶好の位置に陣を敷いた。
秀秋は秀吉の正室高台院の甥である。寵愛されていたが、秀頼が生まれると小早川隆景の養子に出されてしまう。この仕打ちで秀秋はガックリ、悩んだ挙句豊臣に未練もなく東軍に味方する。
21歳で病死、小早川家は無嗣断絶となりお家取り潰しとなってしまう。

        
「家康最後の陣地」 床几場。 桃配山から早い時期に三成のいる笹尾山近くに陣を進める。
徳川の勝利に終わるとここで首実験をし、関ヶ原の領主である竹中氏に死者の埋葬を命じた。
この土塁は、天保12年(1841)竹中氏が築いたもの。(竹中氏の詳述は同文(47)に記述)

「東首塚」 竹中氏が造り、徳風会の人達によって昭和15年に供養堂を建てた。

「東首塚」 手前、首洗いの井戸と大樹の根方に首が埋まる

「西首塚」 領主竹中重門(竹中半兵衛の子)が埋葬した、当時はかなり大きな規模であったと言う。
手前の御堂は、千手観音と馬頭観音が安置されている。戦闘中倒れた馬の供養である。

首は大樹の根方に埋まる。

「不破関址」  壬申の乱(672)翌年天武天皇(大海皇子)が東山道の重要性から関が設けられた。
東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道越前愛発関と不破関を三関として、都の変に対処するためであった。

     
「不破関守の屋敷庭園」 ここは関守の屋敷あとである、政庁はこの先100mに畑となってある。
この史跡は、東海自然歩道の道筋に存在しているので、関ヶ原の合戦とは関係ないが記述した。

小早川秀秋の陣場跡の松尾山を南に下ると、平井の集落に出る。東海自然歩道はここから養老への道の始まりとなる。
今須川沿いに下り、牧田で藤古川に合流すると、国道365号の伊勢街道に出る。

伊勢街道を南に歩けば、牧田公民館バス停前に着く。関ヶ原駅に行くバスがあるから便利だ。
今日はここを区切りとして、バスで関ヶ原駅に出て宿舎の大垣に戻る。
(平日のバス時刻、関ヶ原行 13:06、15:06、17:51、18:26  休日:8:31、13:06、
17:51のみ)

[参考タイムを記す] 関ヶ原駅(7:40)→戦跡散策→松尾山(11:00)→平井(11:30)→牧田公民館バス停(12:40-13:06)→関ヶ原駅(13:40)

この項完

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