平成30年4月29日 池内淑皓
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2017年9月28日(木)大雨~曇り 今日は白毫寺(びゃくごうじ)から柳生街道に入り石切峠、圓城寺を通り柳生の里に出る。午後は笠置山に向かい、関西本線の笠置駅から亀山、名古屋経由で横浜に帰る。
白毫寺(びゃくごうじ)に着いてから、土砂降りの雨となったが、雨中の柳生街道もまた一興、とあきらめて歩く。
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柳生街道概念図(白毫寺~柳生の里~笠置) 地図:奈良県 景観・自然環境課
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奈良駅前から市内外循環のバスに乗り、高畑町で下車。 奈良教育大学先を左折する
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百毫寺の標石と自然歩道の道標が出てくるから、案内に従って寺に向かう。
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百毫寺山門入口、古刹にしては見劣りする入口だ。
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「百毫寺山門」 真言宗 今の時間は6:50 開門は9:00だから早すぎるよ。
霊亀元年(715)天智天皇の第七皇子志貴皇子の山荘を寺とした、境内には珍しい閻魔王像を含めて八体の国指定重文がある。境内見学は断念して雨が来ないうちに歩こう。
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百毫寺の裏手を回り込むように歩くと、奈良市内から来る柳生街道に合する、あとは柳生への道しるべに従へば道を間違うことはないだろう。
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舗装が途切れると山道となり、沢沿いに道が付けられている。
この道は昔、奈良から大柳生への交易の生活道路として、昭和30年代までは命脈を保っていたが、自動車道路の延長で、今はハイキングの道となってしまった。
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道幅は狭くなっているが、良く整備されており、快適に歩ける。
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能登川の渓流に沿って行くが、気分よく散策できる
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「 磨崖仏朝日観音石仏」
この先にある圓成寺の僧たちが修行したと云う。この道は別名「滝坂の道」ともいわれ、修験道でもあった。
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幽玄な杣道になってきた、山の辺の道と違った雰囲気でわくわくして来る。
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「石切り峠」は特に説明板もなく、たんたんと山道から舗装道路に出る
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峠の茶屋前に出た。生憎雨の為店は閉まっていたが、扉を開けてジュースを購入
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「園成寺」 この街道一の名刹。天平時代の創建で、鑑真和上の弟子唐僧虚滝和尚の開山と伝える。応仁の乱で堂塔を焼くが、文明19年(1487)再建するも、明治の廃仏毀釈で衰えた。
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ここには国宝の春日堂、白山堂があり、特に大日如来坐像は現存する最も古い運慶の作と云われる
庭園は、平安時代末期に寛遍僧正が築いたと言う、浄土・舟遊式を兼備した寝殿造系庭園として有名(名勝)
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圓成寺を過ぎると程なく大柳生の里に入る。
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道は大柳生の穀倉地帯を横切る
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「夜支布山口神社」 自然歩道は迂回して、このお宮にお参りしてから、南明寺に向かう
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「南明寺」 宝亀二年(771)創建と云う古い社であるが、お堂だけが残る。
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この辺りの道は田の畦道を歩いたり、 山裾を巡るように歩いたり、ウオーカーを飽きさせない道づくりになっている。ここからしばらく山道に入り、柳生町に入る。
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「柳生」 奈良県添上郡柳生郷を治めた1.5万石の小藩。しかし柳生家は代々、将軍家の剣術指南として、幕閣に重きをなした。藩主は剣術指南をするため江戸常付(江戸詰め)となり、参勤交代はなかった。
藩祖は柳生宗矩、長男は三厳(十兵衛)、 以降13代にわたりこの地を支配し、明治を迎えた。
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「疱瘡地蔵」 一山越え柳生の里に入ると、すぐこの地蔵の出迎いを受ける。
元応元年(1319)の刻印を持つ地蔵で、顔の部分の形状から名が付いた。疱瘡除けの地蔵
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昭和44年土中から発見されたと言うこの石は、正長元年(1428)徳政一揆の記録が彫られており、貴重な文化財だと言われる。
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立派な屋敷が建つ
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「家老屋敷」 柳生藩一万石の家老、小山田主鈴の旧邸。
嘉永元年(1848)の建築文政九年(1826)国家老として江戸から奈良に移り、柳生藩南都屋敷を預かり、藩財政の立て直しに成功した。
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昭和31年まで末裔が住んでいたが、昭和39年山岡荘八の所有となり、昭和55年奈良市に寄贈された。 奈良県では唯一の武家屋敷遺構である。
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「古城山」 元弘の乱(1331)で後醍醐天皇の笠置山を守るためこの山上に砦を築いた。
山は里の外れにある。
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この建物は民家である。
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柳生の里を出て国道を横切り、柳生街道を終え今度は笠置街道に入り、笠置に向けて北に向かう
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「阿対の石仏」 室町時代の彫刻で磨崖仏。 流行病に効果があると里人は云う。
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笠置街道[柳生~笠置)
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かさぎゴルフ倶楽部の前に出ると、県境で奈良県を過ぎ、京都府に入る。
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「笠置山寺」 天武天皇の開基と云われる。奈良時代東大寺の実忠和尚とその師、良弁僧正が磨崖仏を刻み、一大修験場としたことに始まる。
平安時代の全盛期には、49院の子院があったが、時代と共に衰退し元弘の乱、安政の大地震で壊滅的な打撃を受けた。山内49院を総称して笠置寺とし、笠置寺なる建物はなかった。
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「大師堂」
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正月堂と磨崖仏と十三重の塔。 塔は元弘の乱における死者の供養塔
ここが本尊仏の礼拝堂となっている
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「ゆるぎ石」 幕府軍の攻撃に備えるために運び込んだ石、 実際に動く
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笠置駅に描かれている元弘の乱絵巻
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「後醍醐天皇行在所跡」 ここから先立ち入り禁止
元弘元年(1331)後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕の密議が露見、幕府に追われここ笠置山に逃れる。
山頂から巨石、巨木を落として戦うも多勢に無勢、捕らわれて隠岐島に流罪。
柳生の里から1時間で笠置に到達する。
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麓の白砂川「大手橋」から見た笠置山(標高288m)。 橋の袂が大手門跡と云われる。
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「笠置駅 15:30到着
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笠置駅発15:51に乗れば、亀山乗り換えで名古屋には18:30に到着する。
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[参考タイム] 奈良駅前バス停(6:10)→高畑町(6:20)→白毫寺(6:50-7:15朝食)
→首切り地蔵(9:10)→石切峠の茶屋(8:45-9:10)→圓成寺(10:25-10:35)→南明寺
(12:15)→柳生の里(13:20-13:40)→笠置寺(14:30-15:00)→JR笠置駅(15:30-
15:51)→亀山駅(17:24)
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この項完
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東海自然歩道を歩く(64) 笠置駅・大河原駅・月ヶ瀬口駅に続く
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