平成30年9月11日 池内淑皓
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東海自然歩道歩きは、昨年12月20日比叡山を降りて、大原に到着し年を越しました。
2018年(H30)3月22日彼岸に入り、京の雪も消えたので、自然歩道を歩き続ける事とした。
第一日目3月22日(木) 大原、寂光院、鞍馬、貴船神社と歩き、鞍馬線の二ノ瀬駅着、四条泊まり
第二日目3月23日(金) 二ノ瀬駅、夜泣き峠、源光庵、高山寺・栂ノ尾バス停着、四条泊まり
第三日目3月24日(土) 栂ノ尾バス停、清滝、鳥居本、嵐山、阪急東向日駅、京都駅、横浜へ帰る
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第一目3月22日を歩いてみよう、天気はあまり良くない。
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東海自然歩道全行程図 今、京都大原に来ているから、全体の95%を歩いたかな、と感じている。
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今日歩く東海自然歩道概念図(大原~寂光院~江文峠)
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四条河原町から大原行きのバスで40分程乗ると、大原バス停には9:05頃到着する。
バス停には観光客のために、分かりやすい案内板がある。
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案内板に従って店の前を通り抜けると、自然歩道の道標があった。
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ここは平安時代からの道であるから、石造りの道標もある
[右:寂光院 左:京道]
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大原の里は穏やかだ。
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「寂光院」 天台宗の尼寺、推古二年(594)聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために
創建された。本尊は六万体地蔵尊であるが、平成12年火災で本堂と共に焼失。
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「建礼門院徳子の墓」(宮内庁が陵墓を守る) 寂光院の隣に位置する
平の清盛の息女、高倉天皇の中宮で安徳天皇の母。
文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔うため、終生この地に閑居した。
後白河法皇が、都よりこの建礼門院を見舞って御幸されたと言うのが、平家物語のフィナーレである。
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「石の道標」 県道と山道に入る角にある。 [右:じょうやこういん道 左:くらまミち]
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「江文神社」 平安末期に背後の金毘羅山から神を下ろして、ここに祀った。
祭神:倉稲魂命(うがのたまのみこと)
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「江文峠」 何の変哲もない峠になってしまった。峠前にバス道路が走るから、峠の風情がなくなってしまったのだろう、道標のみポツンと残る。
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県道を離れて、静原の集落に向かう。
静原はかつて平家物語に云う、御白河法皇の「大原御幸」の道だ。
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「薬王坂」 国土地理院の地図にも乗る古くからの坂。
伝教大師が鞍馬で薬王如来の像を作り、比叡山へ帰ろうとしてこの坂を越えたとき、薬王がその姿を現したところからその名が付いた。
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東海自然歩道概念図(静原~薬王坂~鞍馬)
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「鞍馬寺」 平安時代以降、洛北の守護神として朝廷や庶民の厚い信仰を受けてきた。
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東海自然歩道概念図(静原~薬王坂~鞍馬寺)
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「鞍馬寺本堂」 本尊:千手観音。 宝亀元年(770)鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を祀り、延暦15年(796)藤原勢人が堂塔伽藍を整えた。
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「義経堂」 平治の乱で敗れた源義朝は、尾張野間(愛知県知多郡美浜町)で部下の裏切りにより惨殺される。牛若、乙若はいち早く母と共に大和に逃れる、11歳の時鞍馬に預けられ16歳までここで過ごす。
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「奥の院 魔王殿」 650万年前金星から地球の霊王となるために降臨したとされる 「魔王尊」を祀っている。 鞍馬寺で最も奥まった場所 (鞍馬寺パンフレットによる)
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祭神:「護法魔王尊」
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鞍馬の山を下り貴船街道に出ると、昔ながらの町並が残っていた
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「貴船神社」 祭神:高霊龍神社、たかおかみのかみ
神武天皇の母・玉依姫が黄船に乗って貴船川を遡り、この地に祠を建てたのが起源だと云う。
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この社は鴨川の上流にあたり、水の供給を司る神。
平安初期の延暦15年(796)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立した。
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貴船神社にお参りの後、貴船川沿いに歩き、叡山電鉄鞍馬線の貴船口駅前を通り、
二ノ瀬駅を今日のゴールとした。 15:40着 23.2km、28,000歩であった。
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電車は一時間に二本程度走っているから、京都の町まで30分程で帰れる。
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[参考タイム] 大原バス停(8:05-8:10)→寂光院(9:30-10:00)→江文峠(10:55-
11:05)→薬王坂(途中昼食含む12:35)→鞍馬寺(ケーブル利用13:00-13:40)→貴船神社(14:35-14:50)→叡山鉄道二ノ瀬駅(15:40)→出町柳駅(16:00)
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この項完
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東海自然歩道を歩く(71) 二ノ瀬・大岩・源光庵・高山寺に続く
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